し是等の京劇は少くとも甚だ哲学的である。哲学者胡適氏はこの価値の前に多少氏の雷霆《らいてい》の怒を和げる訳には行かないであらうか?
経験
経験ばかりにたよるのは消化力を考へずに食物ばかりにたよるものである。同時に又経験を徒らにしない能力ばかりにたよるのもやはり食物を考へずに消化力ばかりにたよるものである。
アキレス
希臘の英雄アキレスは踵《かかと》だけ不死身ではなかつたさうである。――即ちアキレスを知る為にはアキレスの踵を知らなければならぬ。
芸術家の幸福
最も幸福な芸術家は晩年に名声を得る芸術家である。国木田独歩もそれを思へば、必しも不幸な芸術家ではない。
好人物
女は常に好人物を夫に持ちたがるものではない。しかし男は好人物を常に友だちに持ちたがるものである。
又
好人物は何より先に天上の神に似たものである。第一に歓喜を語るのに好い。第二に不平を訴へるのに好い。第三に――ゐてもゐないでも好い。
罪
「その罪を憎んでその人を憎まず」とは必しも行ふに難いことではない。大抵の子は大抵の親にちやんとこの格言を実行してゐる。
桃李
「桃李《たうり》言はざれども、下自ら蹊《けい》を成す」とは確かに知者の言である。尤も「桃李言はざれども」ではない。実は「桃李言はざれば[#「ざれば」に傍点]」である。
偉大
民衆は人格や事業の偉大に籠絡《ろうらく》されることを愛するものである。が、偉大に直面することは有史以来愛したことはない。
広告
「侏儒の言葉」十二月号の「佐佐木茂索君の為に」は佐佐木君を貶したのではありません。佐佐木君を認めない批評家を嘲つたものであります。かう言ふことを広告するのは「文芸春秋」の読者の頭脳を軽蔑することになるかも知れません。しかし実際或批評家は佐佐木君を貶したものと思ひこんでゐたさうであります。且又この批評家の亜流も少くないやうに聞き及びました。その為に一言広告します。尤もこれを公にするのはわたくしの発意ではありません。実は先輩里見※[#「弓+享」、第3水準1−84−22]君の煽動によつた結果であります。どうかこの広告に憤る読者は里見君に非難を加へて下さい。「侏儒の言葉」の作者。
追加広告
前掲の広告中、「里見君に非難を加へて下さい」と言つたのは勿論わたしの常談であります。実際は非難を加へずともよろしい。わたしは或批評家の代表する一団の天才に敬服した余り、どうも多少ふだんよりも神経質になつたやうであります。同上
再追加広告
前掲の追加広告中、「或批評家の代表する一団の天才に敬服した」と言ふのは勿論反語と言ふものであります。同上
芸術
画力は三百年、書力は五百年、文章の力は千古無窮とは王世貞《わうせいてい》の言ふ所である。しかし敦煌《とんくわう》の発掘品等に徴すれば、書画は五百年を閲《けみ》した後にも依然として力を保つてゐるらしい。のみならず文章も千古無窮に力を保つかどうかは疑問である。観念も時の支配の外に超然としてゐることの出来るものではない。我我の祖先は「神」と言ふ言葉に衣冠束帯の人物を髣髴《はうふつ》してゐた。しかし我我は同じ言葉に髯の長い西洋人を髣髴してゐる。これはひとり神に限らず、何ごとにも起り得るものと思はなければならぬ。
又
わたしはいつか東洲斎写楽の似顔画を見たことを覚えてゐる。その画中の人物は緑いろの光琳波《くわうりんは》を描いた扇面を胸に開いてゐた。それは全体の色彩の効果を強めてゐるのに違ひなかつた。が、廓大鏡に覗いて見ると、緑いろをしてゐるのは緑青《ろくしやう》を生じた金いろだつた。わたしはこの一枚の写楽に美しさを感じたのは事実である。けれどもわたしの感じたのは写楽の捉へた美しさと異つてゐたのも事実である。かう言ふ変化は文章の上にもやはり起るものと思はなければならぬ。
又
芸術も女と同じことである。最も美しく見える為には一時代の精神的雰囲気或は流行に包まれなければならぬ。
又
のみならず芸術は空間的にもやはり軛《くびき》を負はされてゐる。一国民の芸術を愛する為には一国民の生活を知らなければならぬ。東禅寺に浪士の襲撃を受けた英吉利《イギリス》の特命全権公使サア・ルサアフォオド・オルコツクは我我日本人の音楽にも騒音を感ずる許りだつた。彼の「日本に於ける三年間」はかう言ふ一節を含んでゐる。――「我我は坂を登る途中、ナイティンゲエルの声に近い鶯の声を耳にした。日本人は鶯に歌を教へたと言ふことである。それは若しほんたうとすれば、驚くべきことに違ひない。元来日本人は音楽と言ふものを自ら教へることも知らないのであるから。」(第二巻第二十九章)
天才
天才とは僅かに我我と一歩を隔てたもののことである。只この一歩を理解する為には百里の半ばを九十九里とする超数学を知らなければならぬ。
又
天才とは僅かに我我と一歩を隔てたもののことである。同時代は常にこの一歩の千里であることを理解しない。後代は又この一歩であることに盲目である。同時代はその為に天才を殺した。後代は又その為に天才の前に香を焚《た》いてゐる。
又
民衆も天才を認めることに吝《やぶさ》かであるとは信じ難い。しかしその認めかたは常に頗る滑稽である。
又
天才の悲劇は「小ぢんまりした、居心の好い名声」を与へられることである。
又
耶蘇「我笛吹けども、汝等踊らず。」
彼等「我等踊れども、汝足らはず。」
嘘
我我は如何なる場合にも、我我の利益を擁護せぬものに「清き一票」を投ずる筈はない。この「我我の利益」の代りに「天下の利益」を置き換へるのは全共和制度の嘘である。この嘘だけはソヴイエツトの治下にも消滅せぬものと思はなければならぬ。
又
一体になつた二つの観念を採り、その接触点を吟味すれば、諸君は如何に多数の嘘に養はれてゐるかを発見するであらう。あらゆる成語はこの故に常に一つの問題である。
又
我我の社会に合理的外観を与へるものは実はその不合理の――その余りに甚しい不合理の為ではないであらうか?
レニン
驚いたね、レニンと言ふ人の余りに当り前の英雄なのには。
賭博
偶然即ち神と闘ふものは常に神秘的威厳に満ちてゐる。賭博者《とばくしや》も亦この例に洩れない。
又
古来賭博に熱中した厭世主義者のないことは如何に賭博の人生に酷似してゐるかを示すものである。
又
法律の賭博を禁ずるのは賭博に依る富の分配法そのものを非とする為ではない。実は唯その経済的ディレツタンティズムを非とする為である。
懐疑主義
懐疑主義も一つの信念の上に、――疑ふことは疑はぬと言ふ信念の上に立つものである。成程それは矛盾かも知れない。しかし懐疑主義は同時に又少しも信念の上に立たぬ哲学のあることをも疑ふものである。
正直
若し正直になるとすれば、我我は忽《たちま》ち何びとも正直になられぬことを見出すであらう。この故に我我は正直になることに不安を感ぜずにはゐられぬのである。
虚偽
わたしは或嘘つきを知つてゐた。彼女は誰よりも幸福だつた。が、余りに嘘の巧みだつた為にほんたうのことを話してゐる時さへ嘘をついてゐるとしか思はれなかつた。それだけは確かに誰の目にも彼女の悲劇に違ひなかつた。
又
わたしも亦あらゆる芸術家のやうに寧ろ嘘には巧みだつた。が、いつも彼女には一籌《いつちう》を輸する外はなかつた。彼女は実に去年の嘘をも五分前の嘘のやうに覚えてゐた。
又
わたしは不幸にも知つてゐる。時には嘘に依る外は語られぬ真実もあることを。
諸君
諸君は青年の芸術の為に堕落することを恐れてゐる。しかしまづ安心し給へ。諸君ほどは容易に堕落しない。
又
諸君は芸術の国民を毒することを恐れてゐる。しかしまづ安心し給へ。少くとも諸君を毒することは絶対に芸術には不可能である。二千年来芸術の魅力を理解せぬ諸君を毒することは。
忍従
忍従はロマンテイツクな卑屈である。
企図
成すことは必しも困難ではない。が、欲することは常に困難である。少くとも成すに足ることを欲するのは。
又
彼等の大小を知らんとするものは彼等の成したことに依り、彼等の成さんとしたことを見なければならぬ。
兵卒
理想的兵卒は苟《いやし》くも上官の命令には絶対に服従しなければならぬ。絶対に服従することは絶対に批判を加へぬことである。即ち理想的兵卒はまづ理性を、失はなければならぬ。
又
理想的兵卒は苟くも上官の命令には絶対に服従しなければならぬ。絶対に服従することは絶対に責任を負はぬことである。即ち理想的兵卒はまづ無責任を好まなければならぬ。
軍事教育
軍事教育と言ふものは畢竟只軍事用語の知識を与へるばかりである。その他の知識や訓練は何も特に軍事教育を待つた後に得られるものではない。現に海陸軍の学校さへ、機械学、物理学、応用化学、語学等は勿論、剣道、柔道、水泳等にもそれ/″\専門家を傭つてゐるではないか? しかも更に考へて見れば、軍事用語も学術用語と違ひ、大部分は通俗的用語である。すると軍事教育と言ふものは事実上ないものと言はなければならぬ。事実上ないものゝ利害得失は勿論問題にはならぬ筈である。
勤倹尚武
「勤倹尚武」と言ふ成語位、無意味を極めてゐるものはない。尚武は国際的|奢侈《しやし》である。現に列強は軍備の為に大金を費してゐるではないか? 若し「勤倹尚武」と言ふことも痴人の談でないとすれば、「勤倹遊蕩」と言ふこともやはり通用すると言はなければならぬ。
日本人
我我日本人の二千年来君に忠に親に孝だつたと思ふのは、猿田彦の命もコスメ・テイツクをつけてゐたと思ふのと同じことである。もうそろ/\ありのまゝの歴史的事実に徹して見ようではないか?
倭寇
倭寇《わこう》は我我日本人も優に列強に伍するに足る能力のあることを示したものである。我我は盗賊、殺戮、姦淫等に於ても、決して「黄金の島」を探しに来た西班牙《スペイン》人、葡萄牙《ポルトガル》人、和蘭《オランダ》人、英吉利《イギリス》人等に劣らなかつた。
つれづれ草
わたしは度たびかう言はれてゐる。――「つれづれ草などは定めしお好きでせう?」しかし不幸にも「つれづれ草」などは、未嘗《いまだかつて》愛読したことはない。正直な所を白状すれば「つれづれ草」の名高いのもわたしには殆ど不可解である。中学程度の教科書に便利であることは認めるにもしろ。
徴候
恋愛の徴候の一つは彼女は過去に何人の男を愛したか、或はどう言ふ男を愛したかを考へ、その架空の何人かに漠然とした嫉妬を感ずることである。
又
又恋愛の徴候の一つは彼女に似た顔を発見することに極度に鋭敏になることである。
恋愛と死と
恋愛の死を想はせるのは進化論的根拠を持つてゐるのかも知れない。蜘蛛や蜂は交尾を終ると、忽ち雄は雌の為に刺し殺されてしまふのである。わたしは伊太利の旅役者の歌劇「カルメン」を演ずるのを見た時、どうもカルメンの一挙一動に蜂を感じてならなかつた。
身代り
我我は彼女を愛する為に往々彼女の外の女人を彼女の身代りにするものであ
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