ヂ・ムアアは「我死せる自己の備忘録」の中にかう言ふ言葉を挟んでゐる。――「偉大なる画家は名前を入れる場所をちやんと心得てゐるものである。又決して同じ所に二度と名前を入れぬものである。」
勿論「決して同じ所に二度と名前を入れぬこと」は如何なる画家にも不可能である。しかしこれは咎《とが》めずとも好い。わたしの意外に感じたのは「偉大なる画家は名前を入れる場所をちやんと心得てゐる」と言ふ言葉である。東洋の画家には未だ嘗て落款《らくくわん》の場所を軽視したるものはない。落款の場所に注意せよなどと言ふのは陳套語《ちんたうご》である。それを特筆するムアアを思ふと、坐《そぞ》ろに東西の差を感ぜざるを得ない。
大作
大作を傑作と混同するものは確かに鑑賞上の物質主義である。大作は手間賃の問題に過ぎない。わたしはミケル・アンヂエロの「最後の審判」の壁画よりも遥かに六十何歳かのレムブラントの自画像を愛してゐる。
わたしの愛する作品
わたしの愛する作品は、――文芸上の作品は畢竟作家の人間を感ずることの出来る作品である。人間を――頭脳と心臓と官能とを一人前に具へた人間を。
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