りも零細なる知識を重んずるものである。この故に処女崇拝者は恋愛上の衒学者《げんがくしや》と云はなければならぬ。あらゆる処女崇拝者の何か厳然と構へてゐるのも或は偶然ではないかも知れない。
又
勿論処女らしさ崇拝は処女崇拝以外のものである。この二つを同義語とするものは恐らく女人の俳優的才能を余りに軽々に見てゐるものであらう。
礼法
或女学生はわたしの友人にかう云ふ事を尋ねたさうである。
「一体接吻をする時には目をつぶつてゐるものなのでせうか? それともあいてゐるものなのでせうか?」
あらゆる女学校の教課の中に恋愛に関する礼法のないのはわたしもこの女学生と共に甚だ遺憾に思つてゐる。
貝原益軒
わたしはやはり小学時代に貝原益軒の逸事を学んだ。益軒は嘗《かつて》乗合船の中に一人の書生と一しよになつた。書生は才力に誇つてゐたと見え、滔々《たうたう》と古今の学芸を論じた。が、益軒は一言も加へず、静かに傾聴するばかりだつた。その内に船は岸に泊した。船中の客は別れるのに臨んで姓名を告げるのを例としてゐた。書生は始めて益軒を知り、この一代の大儒の前に忸怩《ぢくぢ》として先刻の無礼を謝した。――かう云ふ逸事を学んだのである。
当時のわたしはこの逸事の中に謙譲の美徳を発見した。少くとも発見する為に努力したことは事実である。しかし今は不幸にも寸毫の教訓さへ発見出来ない。この逸事の今のわたしにも多少の興味を与へるは僅かに下のやうに考へるからである。――
一 無言に終始した益軒の侮蔑は如何に辛辣《しんらつ》を極めてゐたか!
二 書生の恥ぢるのを欣《よろこ》んだ同船の客の喝采は如何に俗悪を極めてゐたか!
三 益軒の知らぬ新時代の精神は年少の書生の放論の中にも如何に溌剌と鼓動してゐたか!
或弁護
或新時代の評論家は「蝟集《ゐしふ》する」と云ふ意味に「門前|雀羅《じやくら》を張る」の成語を用ひた。「門前雀羅を張る」の成語は支那人の作つたものである。それを日本人の用ふるのに必しも支那人の用法を踏襲しなければならぬと云ふ法はない。もし通用さへするならば、たとへば、「彼女の頬笑みは門前雀羅を張るやうだつた」と形容しても好い筈である。
もし通用さへするならば、――万事はこの不可思議なる「通用」の上に懸かつてゐる。たとへば「わたくし小説」もさうではないか? Ich−Roman と云ふ意味は一人称を用ひた小説である。必しもその「わたくし」なるものは作家自身と定まつてはゐない。が、日本の「わたくし」小説は常にその「わたくし」なるものを作家自身とする小説である。いや、時には作家自身の閲歴談と見られたが最後、三人称を用ひた小説さへ「わたくし」小説と呼ばれてゐるらしい。これは勿論|独逸《ドイツ》人の――或は全西洋人の用法を無視した新例である。しかし全能なる「通用」はこの新例に生命を与へた。「門前雀羅を張る」の成語もいつかはこれと同じやうに意外の新例を生ずるかも知れない。
すると或評論家は特に学識に乏しかつたのではない。唯|聊《いささ》か時流の外に新例を求むるのに急だつたのである。その評論家の揶揄《やゆ》を受けたのは、――兎に角あらゆる先覚者は常に薄命に甘んじなければならぬ。
制限
天才もそれ/″\乗り越え難い或制限に拘束されてゐる。その制限を発見することは多少の寂しさを与へぬこともない。が、それはいつの間にか却《かへ》つて親しみを与へるものである。丁度竹は竹であり、蔦《つた》は蔦である事を知つたやうに。
火星
火星の住民の有無を問ふことは我我の五感に感ずることの出来る住民の有無を問ふことである。しかし生命は必しも我我の五感に感ずることの出来る条件を具へるとは限つてゐない。もし火星の住民も我我の五感を超越した存在を保つてゐるとすれば、彼等の一群は今夜も亦|篠懸《すずかけ》を黄ばませる秋風と共に銀座へ来てゐるかも知れないのである。
Blanqui の夢
宇宙の大は無限である。が、宇宙を造るものは六十幾つかの元素である。是等の元素の結合は如何に多数を極めたとしても、畢竟有限を脱することは出来ない。すると是等の元素から無限大の宇宙を造る為には、あらゆる結合を試みる外にも、その又あらゆる結合を無限に反覆して行かなければならぬ。して見れば我我の棲息する地球も、――是等の結合の一つたる地球も太陽系中の一惑星に限らず、無限に存在してゐる筈である。この地球上のナポレオンはマレンゴオの戦に大勝を博した。が、茫々たる大虚に浮んだ他の地球上のナポレオンは同じマレンゴオの戦に大敗を蒙《かうむ》つてゐるかも知れない。……
これは六十七歳のブランキの夢みた宇
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