のである。

       S・Mの智慧

 これは友人S・Mのわたしに話した言葉である。
 弁証法の功績。――所詮何ものも莫迦げてゐると云ふ結論に到達せしめたこと。
 少女。――どこまで行つても清冽な浅瀬。
 早教育。――ふむ、それも結構だ。まだ幼稚園にゐるうちに智慧の悲しみを知ることには責任を持つことにも当らないからね。
 追憶。――地平線の遠い風景画。ちやんと仕上げもかゝつてゐる。
 女。――メリイ・ストオプス夫人によれば女は少くとも二週間に一度、夫に情欲を感ずるほど貞節に出来てゐるものらしい。
 年少時代。――年少時代の憂鬱は全宇宙に対する驕慢《けうまん》である。
 艱難《かんなん》汝を玉にす。――艱難汝を玉にするとすれば、日常生活に、思慮深い男は到底玉になれない筈である。
 我等如何に生くべき乎《か》。――未知の世界を少し残して置くこと。

       社交

 あらゆる社交はおのづから虚偽を必要とするものである。もし寸毫《すんがう》の虚偽をも加へず、我我の友人知己に対する我我の本心を吐露するとすれば、古への管鮑《くわんぱう》の交りと雖も破綻《はたん》を生ぜずにはゐなかつたであらう。管鮑の交りは少時《しばらく》問はず、我我は皆多少にもせよ、我我の親密なる友人知己を憎悪し或は軽蔑してゐる。が、憎悪も利害の前には鋭鋒を収めるのに相違ない。且又軽蔑は多々益々恬然と虚偽を吐かせるものである。この故に我我の友人知己と最も親密に交る為めには、互に利害と軽蔑とを最も完全に具へなければならぬ。これは勿論《もちろん》何びとにも甚だ困難なる条件である。さもなければ我我はとうの昔に礼譲に富んだ紳士になり、世界も亦とうの昔に黄金時代の平和を現出したであらう。

       瑣事

 人生を幸福にする為には、日常の瑣事《さじ》を愛さなければならぬ。雲の光り、竹の戦《そよ》ぎ、群雀《むらすずめ》の声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事の中に無上の甘露味《かんろみ》を感じなければならぬ。
 人生を幸福にする為には?――しかし瑣事を愛するものは瑣事の為に苦しまなければならぬ。庭前の古池に飛びこんだ蛙は百年の愁を破つたであらう。が、古池を飛び出した蛙は百年の愁を与へたかも知れない。いや、芭蕉の一生は享楽の一生であると共に、誰の目にも受苦の一生である。我我も微妙に楽しむ為には、やはり又微妙に苦しまなければならぬ。
 人生を幸福にする為には、日常の瑣事に苦しまなければならぬ。雲の光り、竹の戦ぎ、群雀の声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事の中に堕地獄の苦痛を感じなければならぬ。

       神

 あらゆる神の属性中、最も神の為に同情するのは神には自殺の出来ないことである。

       又

 我我は神を罵殺《ばさつ》する無数の理由を発見してゐる。が、不幸にも日本人は罵殺するのに価するほど、全能の神を信じてゐない。

       民衆

 民衆は穏健なる保守主義者である。制度、思想、芸術、宗教、――何ものも民衆に愛される為には、前時代の古色を帯びなければならぬ。所謂民衆芸術家の民衆の為に愛されないのは必しも彼等の罪ばかりではない。

       又

 民衆の愚を発見するのは必しも誇るに足ることではない。が、我我自身も亦民衆であることを発見するのは兎も角も誇るに足ることである。

       又

 古人は民衆を愚にすることを治国の大道に数へてゐた。丁度まだこの上にも愚にすることの出来るやうに。――或は又どうかすれば賢にでもすることの出来るやうに。

       チエホフの言葉

 チエホフはその手記の中に男女の差別を論じてゐる。――「女は年をとると共に、益々女の事に従ふものであり、男は年をとると共に、益々女の事から離れるものである。」
 しかしこのチエホフの言葉は男女とも年をとると共に、おのづから異性との交渉に立ち入らないと云ふのも同じことである。これは三歳の童児と雖もとうに知つてゐることと云はなければならぬ。のみならず男女の差別よりも寧ろ男女の無差別を示してゐるものと云はなければならぬ。

       服装

 少くとも女人の服装は女人自身の一部である。啓吉の誘惑に陥らなかつたのは勿論道念にも依つたのであらう。が、彼を誘惑した女人は啓吉の妻の借着をしてゐる。もし借着をしてゐなかつたとすれば、啓吉はさほど楽々とは誘惑の外に出られなかつたかも知れない。(註。菊池寛氏の「啓吉の誘惑」を見よ。)

       処女崇拝

 我我は処女を妻とする為にどの位妻の選択に滑稽なる失敗を重ねて来たか、もうそろそろ処女崇拝には背中を向けても好い時分である。

       又

 処女崇拝は処女たる事実を知つた後に始まるものである。即ち卒直なる感情よ
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