の非難を逆に用ひ、幸福、愉快、軽妙等を欠いてゐると罵つてもかまひません。一名『木に縁つて魚を求むる論法』と申すのは後に挙げた場合を指したのであります。『全否定論法』或は『木に縁つて魚を求むる論法』は痛快を極めてゐる代りに、時には偏頗《へんぱ》の疑ひを招かないとも限りません。しかし『半肯定論法』は兎に角或作品の芸術的価値を半ばは認めてゐるのでありますから、容易に公平の看を与へ得るのであります。
「就《つ》いては演習の題目に佐佐木茂索氏の新著『春の外套』を出しますから、来週までに佐佐木氏の作品へ『半肯定論法』を加へて来て下さい。(この時若い聴講生が一人、「先生、『全否定論法』を加へてはいけませんか?」と質問する)いや、『全否定論法』を加へることは少くとも当分の間は見合せなければなりません。佐佐木氏は兎に角声明のある新進作家でありますから、やはり『半肯定論法』位を加へるのに限ると思ひます。……」
* * * * *
一週間たつた後、最高点を採つた答案は下に掲げる通りである。
「正に器用には書いてゐる。が、畢竟それだけだ。」
親子
親は子供を養育するのに適してゐるかどうかは疑問である。成程牛馬は親の為に養育されるのに違ひない。しかし自然の名のもとにこの旧習の弁護するのは確かに親の我儘である。若し自然の名のもとに如何なる旧習も弁護出来るならば、まづ我我は未開人種の掠奪結婚《りやくだつけつこん》を弁護しなければならぬ。
又
子供に対する母親の愛は最も利己心のない愛である。が、利己心のない愛は必しも子供の養育に最も適したものではない。この愛の子供に与へる影響は――少くとも影響の大半は暴君にするか、弱者にするかである。
又
人生の悲劇の第一幕は親子となつたことにはじまつてゐる。
又
古来如何に大勢の親はかう言ふ言葉を繰り返したであらう。――「わたしは畢竟失敗者だつた。しかしこの子だけは成功させなければならぬ。」
可能
我我はしたいことの出来るものではない。只出来ることをするものである。これは我我個人ばかりではない。我我の社会も同じことである。恐らくは神も希望通りにこの世界を造ることは出来なかつたであらう。
ムアアの言葉
ジヨオ
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