うに作品そのものの中にある訳ではない、作品を鑑賞する我我の心の中にあるものであります。すると『より善い半ば』や『より悪い半ば』は我我の心を標準に、――或は一時代の民衆の何を愛するかを標準に区別しなければなりません。
「たとへば今日の民衆は日本風の草花を愛しません。即ち日本風の草花は悪いものであります。又今日の民衆はブラジル珈琲《コオヒー》を愛してゐます。即ちブラジル珈琲は善いものに違ひありません。或作品の芸術的価値の『より善い半ば』や『より悪い半ば』も当然かう言ふ例のやうに区別しなければなりません。
「この標準を用ひずに、美とか真とか善とか言ふ他の標準を求めるのは最も滑稽な時代錯誤であります。諸君は赤らんだ麦藁帽のやうに旧時代を捨てなければなりません。善悪は好悪を超越しない、好悪は即ち善悪である、愛憎は即ち善悪である、――これは『半肯定論法』に限らず、苟《いやし》くも批評学に志した諸君の忘れてはならぬ法則であります。
「扨《さて》『半肯定論法』とは大体上の通りでありますが、最後に御注意を促したいのは『それだけだ』と言ふ言葉であります。この『それだけだ』と言ふ言葉は是非使はなければなりません。第一『それだけだ』と言ふ以上、『それ』即ち『より悪い半ば』を肯定してゐることは確かであります。しかし又第二に『それ』以外のものを否定してゐることも確かであります。即ち『それだけだ』と言ふ言葉は頗る一揚一抑《いちやういちよく》の趣に富んでゐると申さなければなりません。が、更に微妙なことには第三に『それ』の芸術的価値さへ、隠約の間に否定してゐます。勿論否定してゐると言つても、なぜ否定するかと言ふことは説明も何もしてゐません。只言外に否定してゐる、――これはこの『それだけだ』と言ふ言葉の最も著しい特色であります。顕にして晦《くわい》、肯定にして否定とは正に『それだけだ』の謂《いひ》でありませう。
「この『半肯定論法』は『全否定論法』或は『木に縁《よ》つて魚を求むる論法』よりも信用を博し易いかと思ひます。『全否定論法』或は『木に縁つて魚を求むる論法』とは先週申し上げた通りではありますが、念の為めにざつと繰り返すと、或作品の芸術的価値をその芸術的価値そのものにより、全部否定する論法であります。たとへば或悲劇の芸術的価値を否定するのに、悲惨、不快、憂鬱等の非難を加へる事と思へばよろしい。又こ
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