ポオの後代を震駭《しんがい》した秘密はこの研究に潜んでゐる。
森鴎外
畢竟鴎外先生は軍服に剣を下げた希臘《ギリシア》人である。
或資本家の論理
「芸術家の芸術を売るのも、わたしの蟹の缶詰めを売るのも、格別変りのある筈はない。しかし芸術家は芸術と言へば、天下の宝のやうに思つてゐる。あゝ言ふ芸術家の顰《ひそ》みに傚《なら》へば、わたしも亦|一缶《ひとくわん》六十銭の蟹の缶詰めを自慢しなければならぬ。不肖行年六十一、まだ一度も芸術家のやうに莫迦々々しい己惚《うぬぼ》れを起したことはない。」
批評学
――佐佐木茂索君に――
或天気の好い午前である。博士に化けた Mephistopheles は或大学の講座に批評学の講義をしてゐた。尤もこの批評学は Kant の Kritik や何かではない。只如何に小説や戯曲の批評をするかと言ふ学問である。
「諸君、先週わたしの申し上げた所は御理解になつたかと思ひますから、今日は更に一歩進んだ『半肯定論法』のことを申し上げます。『半肯定論法』とは何かと申すと、これは読んで字の通り、或作品の芸術的価値を半ば肯定する論法であります。しかしその『半ば』なるものは『より悪い半ば』でなければなりません。『より善い半ば』を肯定することは頗《すこぶ》るこの論法には危険であります。
「たとへば日本の桜の花の上にこの論法を用ひて御覧なさい。桜の花の『より善い半ば』は色や形の美しさであります。けれどもこの論法を用ふるためには『より善い半ば』よりも『より悪い半ば』――即ち桜の花の匂ひを肯定しなければなりません。つまり『匂いは正にある。が、畢竟それだけだ』と断案を下してしまふのであります。若し又万一『より悪い半ば』の代りに『より善い半ば』を肯定したとすれば、どう言ふ破綻を生じますか? 『色や形は正に美しい。が、畢竟それだけだ』――これでは少しも桜の花を貶したことにはなりません。
「勿論批評学の問題は如何に或小説や戯曲を貶すかと言ふことに関してゐます。しかしこれは今更のやうに申し上げる必要はありますまい。
「ではこの『より善い半ば』や『より悪い半ば』は何を標準に区別しますか? かう言ふ問題を解決する為には、これも度たび申し上げた価値論へ溯《さかのぼ》らなければなりません。価値は古来信ぜられたや
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