ノも、将《まさ》に溺《おぼ》れんとする幼児を見る時、進んで水に入るのであるか? 救うことを快とするからである。では水に入る不快を避け、幼児を救う快を取るのは何の尺度に依《よ》ったのであろう? より大きい快を選んだのである。しかし肉体的快不快と精神的快不快とは同一の尺度に依らぬ筈《はず》である。いや、この二つの快不快は全然|相容《あいい》れぬものではない。寧《むし》ろ鹹水《かんすい》と淡水とのように、一つに融《と》け合《あ》っているものである。現に精神的教養を受けない京阪辺の紳士諸君はすっぽんの汁を啜《すす》った後、鰻を菜に飯を食うさえ、無上の快に数えているではないか? 且《かつ》又水や寒気などにも肉体的享楽の存することは寒中水泳の示すところである。なおこの間の消息を疑うものはマソヒズムの場合を考えるが好い。あの呪《のろ》うべきマソヒズムはこう云う肉体的快不快の外見上の倒錯に常習的傾向の加わったものである。わたしの信ずるところによれば、或は柱頭の苦行を喜び、或は火裏の殉教を愛した基督教《キリストきょう》の聖人たちは大抵マソヒズムに罹《かか》っていたらしい。
 我我の行為を決するものは昔の
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