》言わざれども、下|自《おのずか》ら蹊《けい》を成す」とは確かに知者の言である。尤《もっと》も「桃李言わざれども」ではない。実は「桃李言わざれば[#「ざれば」に傍点]」である。
偉大
民衆は人格や事業の偉大に籠絡《ろうらく》されることを愛するものである。が、偉大に直面することは有史以来愛したことはない。
広告
「侏儒《しゅじゅ》の言葉」十二月号の「佐佐木茂索君の為に」は佐佐木君を貶《けな》したのではありません。佐佐木君を認めない批評家を嘲《あざけ》ったものであります。こう言うことを広告するのは「文芸春秋」の読者の頭脳を軽蔑《けいべつ》することになるのかも知れません。しかし実際或批評家は佐佐木君を貶したものと思いこんでいたそうであります。且《かつ》又この批評家の亜流も少くないように聞き及びました。その為に一言広告します。尤もこれを公にするのはわたくしの発意ではありません。実は先輩|里見※[#「弓+椁のつくり」、第3水準1−84−22]《さとみとん》君の煽動《せんどう》によった結果であります。どうかこの広告に憤る読者は里見君に非難を加えて下さい。「侏儒の言葉」の作者。
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