は一定の法則を破ったことはない。たとえば餓鬼道の苦しみは目前の飯を食おうとすれば飯の上に火の燃えるたぐいである。しかし人生の与える苦しみは不幸にもそれほど単純ではない。目前の飯を食おうとすれば、火の燃えることもあると同時に、又存外楽楽と食い得ることもあるのである。のみならず楽楽と食い得た後さえ、腸加太児《ちょうカタル》の起ることもあると同時に、又存外楽楽と消化し得ることもあるのである。こう云う無法則の世界に順応するのは何びとにも容易に出来るものではない。もし地獄に堕《お》ちたとすれば、わたしは必ず咄嗟《とっさ》の間に餓鬼道の飯も掠《かす》め得るであろう。況《いわん》や針の山や血の池などは二三年其処に住み慣れさえすれば格別|跋渉《ばっしょう》の苦しみを感じないようになってしまう筈《はず》である。

   醜聞

 公衆は醜聞を愛するものである。白蓮事件《びゃくれんじけん》、有島事件、武者小路事件――公衆は如何にこれらの事件に無上の満足を見出したであろう。ではなぜ公衆は醜聞を――殊に世間に名を知られた他人の醜聞を愛するのであろう? グルモンはこれに答えている。――
「隠れたる自己の醜聞も当
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