狂信者のように獰猛《どうもう》に戦うことは出来ない。
宿命
宿命は後悔の子かも知れない。――或は後悔は宿命の子かも知れない。
彼の幸福
彼の幸福は彼自身の教養のないことに存している。同時に又彼の不幸も、――ああ、何と云う退屈さ加減!
小説家
最も善い小説家は「世故《せこ》に通じた詩人」である。
言葉
あらゆる言葉は銭のように必ず両面を具《そな》えている。例えば「敏感な」と云う言葉の一面は畢竟《ひっきょう》「臆病《おくびょう》な」と云うことに過ぎない。
或物質主義者の信条
「わたしは神を信じていない。しかし神経を信じている。」
阿呆
阿呆はいつも彼以外の人人を悉《ことごと》く阿呆と考えている。
処世的才能
何と言っても「憎悪する」ことは処世的才能の一つである。
懺悔
古人は神の前に懺悔《ざんげ》した。今人は社会の前に懺悔している。すると阿呆や悪党を除けば、何びとも何かに懺悔せずには娑婆苦《しゃばく》に堪えることは出来ないのかも知れない。
又
しかしどちらの懺悔にしても、どの位信用出来るかと云うことはおのずから又別問題である。
「新生」読後
果して「新生」はあったであろうか?
トルストイ
ビュルコフのトルストイ伝を読めば、トルストイの「わが懺悔」や「わが宗教」の※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]《うそ》だったことは明らかである。しかしこの※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]を話しつづけたトルストイの心ほど傷ましいものはない。彼の※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]は余人の真実よりもはるかに紅血を滴らしている。
二つの悲劇
ストリントベリイの生涯の悲劇は「観覧随意」だった悲劇である。が、トルストイの生涯の悲劇は不幸にも「観覧随意」ではなかった。従って後者は前者よりも一層悲劇的に終ったのである。
ストリントベリイ
彼は何でも知っていた。しかも彼の知っていたことを何でも無遠慮にさらけ出した。何でも無遠慮に、――いや、彼も亦我我のように多少の打算はしていたであろう。
又
ストリントベリイは「伝説」の中に死は苦痛か否かと云う実験をしたことを語っている。しかしこう云う実験は遊戯的に出来るものではない。彼も亦「死にたいと思いながら、しかも死ねなかった」一人である。
或理想主義者
彼は彼自身の現実主義者であることに少しも疑惑を抱いたことはなかった。しかしこう云う彼自身は畢竟理想化した彼自身だった。
恐怖
我我に武器を執《と》らしめるものはいつも敵に対する恐怖である。しかも屡《しばしば》実在しない架空の敵に対する恐怖である。
我我
我我は皆我我自身を恥じ、同時に又彼等を恐れている。が、誰も卒直にこう云う事実を語るものはない。
恋愛
恋愛は唯《ただ》性慾の詩的表現を受けたものである。少くとも詩的表現を受けない性慾は恋愛と呼ぶに価いしない。
或老練家
彼はさすがに老練家だった。醜聞を起さぬ時でなければ、恋愛さえ滅多にしたことはない。
自殺
万人に共通した唯一の感情は死に対する恐怖である。道徳的に自殺の不評判であるのは必ずしも偶然ではないかも知れない。
又
自殺に対するモンテェエヌの弁護は幾多の真理を含んでいる。自殺しないものはしない[#「しない」に傍点]のではない。自殺することの出来ない[#「出来ない」に傍点]のである。
又
死にたければいつでも死ねるからね。
ではためしにやって見給え。
革命
革命の上に革命を加えよ。然《しか》らば我等は今日よりも合理的に娑婆苦を嘗《な》むることを得べし。
死
マインレンデルは頗《すこぶ》る正確に死の魅力を記述している。実際我我は何かの拍子に死の魅力を感じたが最後、容易にその圏外に逃れることは出来ない。のみならず同心円をめぐるようにじりじり死の前へ歩み寄るのである。
「いろは」短歌
我我の生活に欠くべからざる思想は或は「いろは」短歌に尽きているかも知れない。
運命
遺伝、境遇、偶然、――我我の運命を司るものは畢竟《ひっきょう》この三者である。自ら喜ぶものは喜んでも善い。しかし他を云々するのは僣越《せんえつ》である。
嘲けるもの
他を嘲《あざけ》るものは同時に又他に嘲られることを恐れるものである。
或日本人の言葉
我にスウィツルを与えよ。然《しか》らずんば言論の自由を与えよ。
人間的な、余りに人間的な
人間的な、余りに人間的なものは大抵
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