されるのに違いない。しかし自然の名のもとにこの旧習の弁護するのは確かに親の我儘《わがまま》である。若《も》し自然の名のもとに如何なる旧習も弁護出来るならば、まず我我は未開人種の掠奪《りゃくだつ》結婚を弁護しなければならぬ。

   又

 子供に対する母親の愛は最も利己心のない愛である。が、利己心のない愛は必ずしも子供の養育に最も適したものではない。この愛の子供に与える影響は――少くとも影響の大半は暴君にするか、弱者にするかである。

   又

 人生の悲劇の第一幕は親子となったことにはじまっている。

   又

 古来如何に大勢の親はこう言う言葉を繰り返したであろう。――「わたしは畢竟失敗者だった。しかしこの子だけは成功させなければならぬ。」

   可能

 我々はしたいことの出来るものではない。只出来ることをするものである。これは我我個人ばかりではない。我我の社会も同じことである。恐らくは神も希望通りにこの世界を造ることは出来なかったであろう。

   ムアアの言葉

 ジョオジ・ムアアは「我死せる自己の備忘録」の中にこう言う言葉を挟んでいる。――「偉大なる画家は名前を入れる場所をちゃんと心得ているものである。又決して同じ所に二度と名前を入れぬものである。」
 勿論「決して同じ所に二度と名前を入れぬこと」は如何なる画家にも不可能である。しかしこれは咎《とが》めずとも好い。わたしの意外に感じたのは「偉大なる画家は名前を入れる場所をちゃんと心得ている」と言う言葉である。東洋の画家には未《いま》だ甞《かつ》て落款《らくかん》の場所を軽視したるものはない。落款の場所に注意せよなどと言うのは陳套語《ちんとうご》である。それを特筆するムアアを思うと、坐《そぞ》ろに東西の差を感ぜざるを得ない。

   大作

 大作を傑作と混同するものは確かに鑑賞上の物質主義である。大作は手間賃の問題にすぎない。わたしはミケル・アンジェロの「最後の審判」の壁画よりも遥《はる》かに六十何歳かのレムブラントの自画像を愛している。

   わたしの愛する作品

 わたしの愛する作品は、――文芸上の作品は畢竟作家の人間を感ずることの出来る作品である。人間を――頭脳と心臓と官能とを一人前に具《そな》えた人間を。しかし不幸にも大抵の作家はどれか一つを欠いた片輪である。(尤《もっと》も時には偉大なる
前へ 次へ
全42ページ中25ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング