を可能にする特色を具《そな》えている。しかし種々の鑑賞を可能にすると云う意味はアナトオル・フランスの云うように、何処か曖昧《あいまい》に出来ている為、どう云う解釈を加えるのもたやすいと云う意味ではあるまい。寧《むし》ろ廬山《ろざん》の峯々《みねみね》のように、種々の立ち場から鑑賞され得る多面性を具えているのであろう。
古典
古典の作者の幸福なる所以《ゆえん》は兎《と》に角《かく》彼等の死んでいることである。
又
我我の――或は諸君の幸福なる所以も兎に角彼等の死んでいることである。
幻滅した芸術家
或一群の芸術家は幻滅の世界に住している。彼等は愛を信じない。良心なるものをも信じない。唯昔の苦行者のように無何有の砂漠を家としている。その点は成程気の毒かも知れない。しかし美しい蜃気楼《しんきろう》は砂漠の天にのみ生ずるものである。百般の人事に幻滅した彼等も大抵芸術には幻滅していない。いや、芸術と云いさえすれば、常人の知らない金色の夢は忽《たちま》ち空中に出現するのである。彼等も実は思いの外、幸福な瞬間を持たぬ訣《わけ》ではない。
告白
完全に自己を告白することは何人にも出来ることではない。同時に又自己を告白せずには如何なる表現も出来るものではない。
ルッソオは告白を好んだ人である。しかし赤裸々の彼自身は懺悔録《ざんげろく》の中にも発見出来ない。メリメは告白を嫌った人である。しかし「コロンバ」は隠約《いんやく》の間に彼自身を語ってはいないであろうか? 所詮告白文学とその他の文学との境界線は見かけほどはっきりはしていないのである。
人生
――石黒定一君に――
もし游泳《ゆうえい》を学ばないものに泳げと命ずるものがあれば、何人も無理だと思うであろう。もし又ランニングを学ばないものに駈《か》けろと命ずるものがあれば、やはり理不尽だと思わざるを得まい。しかし我我は生まれた時から、こう云う莫迦《ばか》げた命令を負わされているのも同じことである。
我我は母の胎内にいた時、人生に処する道を学んだであろうか? しかも胎内を離れるが早いか、兎に角大きい競技場に似た人生の中に踏み入るのである。勿論《もちろん》游泳を学ばないものは満足に泳げる理窟はない。同様にランニングを学ばないものは大抵人後に落ちそうである。すると我我も創
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