ヘ社会主義者の正義であろう。彼処に房のついた長剣がある。あれは国家主義者の正義であろう。わたしはそう云う武器を見ながら、幾多の戦いを想像し、おのずから心悸《しんき》の高まることがある、しかしまだ幸か不幸か、わたし自身その武器の一つを執《と》りたいと思った記憶はない。
尊王
十七世紀の仏蘭西《フランス》の話である。或日 Duc de Bourgogne が 〔Abbe' Choisy〕 にこんなことを尋ねた。シャルル六世は気違いだった。その意味を婉曲《えんきょく》に伝える為には、何と云えば好いのであろう? アベは言下に返答した。「わたしならば唯《ただ》こう申します。シャルル六世は気違いだったと。」アベ・ショアズイはこの答を一生の冒険の中に数え、後のちまでも自慢にしていたそうである。
十七世紀の仏蘭西はこう云う逸話の残っている程、尊王の精神に富んでいたと云う。しかし二十世紀の日本も尊王の精神に富んでいることは当時の仏蘭西に劣らなそうである。まことに、――欣幸《きんこう》の至りに堪えない。
創作
芸術家は何時も意識的に彼の作品を作るのかも知れない。しかし作品そのものを見れば、作品の美醜の一半は芸術家の意識を超越した神秘の世界に存している。一半? 或は大半と云っても好い。
我我は妙に問うに落ちず、語るに落ちるものである。我我の魂はおのずから作品に露《あらわ》るることを免れない。一刀一拝した古人の用意はこの無意識の境に対する畏怖《いふ》を語ってはいないであろうか?
創作は常に冒険である。所詮《しょせん》は人力を尽した後、天命に委《ま》かせるより仕方はない。
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少時学語苦難円 唯道工夫半未全
到老始知非力取 三分人事七分天
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趙甌北《ちょうおうほく》の「論詩」の七絶はこの間の消息を伝えたものであろう。芸術は妙に底の知れない凄《すご》みを帯びているものである。我我も金を欲しがらなければ、又名聞を好まなければ、最後に殆《ほとん》ど病的な創作熱に苦しまなければ、この無気味な芸術などと格闘する勇気は起らなかったかも知れない。
鑑賞
芸術の鑑賞は芸術家自身と鑑賞家との協力である。云わば鑑賞家は一つの作品を課題に彼自身の創作を試みるのに過ぎない。この故に如何なる時代にも名声を失わない作品は必ず種々の鑑賞
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