思い切って、「しょうちいたしました」と云う返事を泰さんに渡しました。ところがその晩の十二時に、例のごとくあの婆が竪川の水に浸った後で、いよいよ婆娑羅《ばさら》の神を祈り下し始めると、全く人間業では仕方のない障害のあるのを知ったのです。が、その仔細《しさい》を申し上げるのには、今の世にあろうとも思われない、あの婆の不思議な修法の次第を御話して置かなければなりますまい。お島婆さんはいざ神を下すとなると、あろう事かお敏を湯巻《ゆまき》一つにして、両手を後へ括《くく》り上げた上、髪さえ根から引きほどいて、電燈を消したあの部屋のまん中に、北へ向って坐らせるのだそうです。それから自分も裸のまま、左の手には裸蝋燭《はだかろうそく》をともし、右の手には鏡を執《と》って、お敏の前へ立ちはだかりながら、口の内に秘密の呪文《じゅもん》を念じて、鏡を相手につきつけつきつけ、一心不乱に祈念をこめる――これだけでも普通の女なら、気を失うのに違いありませんが、その内に追々呪文の声が高くなって来ると、あの婆は鏡を楯《たて》にしながら、少しずつじりじり詰めよせて、しまいには、その鏡に気圧《けお》されるのか、両手の利かないお敏の体が仰向《あおむ》けに畳へ倒れるまで、手をゆるめずに責めるのだと云う事です。しかもこうして倒してしまった上で、あの婆はまるで屍骸《しがい》の肉を食う爬虫類《はちゅうるい》のように這い寄りながら、お敏の胸の上へのしかかって、裸蝋燭の光が落ちる気味の悪い鏡の中を、下からまともにいつまでも覗かせるのだと云うじゃありませんか。するとほどなくあの婆娑羅の神が、まるで古沼の底から立つ瘴気《しょうき》のように、音もなく暗の中へ忍んで来て、そっと女の体へ乗移るのでしょう。お敏は次第に眼が据《すわ》って、手足をぴくぴく引き攣《つ》らせると、もうあの婆が口忙しく畳みかける問に応じて、息もつかずに、秘密の答を饒舌《しゃべ》り続けると云う事です。ですからその晩もお島婆さんは、こう云う手順を違えずに、神を祈下そうとしましたが、お敏は泰さんとの約束を守って、うわべは正気を失ったと見せながら、内心はさらに油断なく、機会さえあれば真しやかに、二人の恋の妨げをするなと、贋《にせ》の神託《しんたく》を下す心算《つもり》でいました。勿論その時あの婆が根掘り葉掘り尋ねる問などは、神慮に叶わない風を装って、一つも答えない事にきめていたのです。ところが例の裸蝋燭の光を受けて、小さいながら爛々《らんらん》と輝いた鏡の面を見つめていると、いくら気を確かに持とうと思っていても、自然と心が恍惚《こうこつ》として、いつとなく我を忘れそうな危険に脅《おびやか》され始めました。そうかと云って、あの婆は、呪文を唱える暇もぬかりなく、じっとこちらの顔色を窺いすましているのですから、隙《すき》を狙《ねら》って鏡から眼を離すと云う訣《わけ》にも行きません。その内に鏡はお敏の視線を吸いよせるように、益々怪しげな光を放って、一寸ずつ、一分ずつ、宿命よりも気味悪く、だんだんこちらへ近づいて来ました。おまけにあの青んぶくれの婆が、絶え間なく呟く呪文の声も、まるで目に見えない蜘蛛《くも》の巣《す》のように、四方からお敏の心を搦《から》んで、いつか夢とも現《うつつ》ともわからない境へ引きずりこもうとするのです。それがどのくらいかかったか、お敏自身も後になって考えたのでは、朧《おぼろ》げな記憶さえ残っていません。が、ともかくも自分には一晩中とも思われるほど、長い長い間続いた後で、とうとうお敏は苦心の甲斐もなく、あの婆の秘法の穽《あな》に陥れられてしまったのでしょう。うす暗い裸蝋燭の火がまたたく中に、大小さまざまの黒い蝶が、数限りもなく円を描いて、さっと天井へ舞上ったと思うと、そのまま目の前の鏡が見えなくなって、いつもの通り死人も同様な眠に沈んでしまいました。
お敏は雷鳴と雨声との中に、眼にも唇にも懸命の色を漲《みなぎ》らせて、こう一部始終を語り終りました。さっきから熱心に耳を傾けていた泰さんと新蔵とは、この時云い合せたように吐息《といき》をして、ちらりと視線を交せましたが、兼て計画の失敗は覚悟していても、一々その仔細《しさい》を聞いて見ると、今度こそすべてが画餅《がへい》に帰したと云う、今更らしい絶望の威力を痛切に感じたからでしょう。しばらくは二人とも唖《おし》のように口を噤《つぐ》んだまま、天を覆して降る豪雨の音を茫然とただ聞いていました。が、その内に泰さんは勇気を振い起したと見えて、今まで興奮し切っていた反動か、見る見る陰鬱になり出したお敏に向って、「その間の事は何一つまるで覚えていないのですか。」と、励ますように尋ねたそうです。と、お敏は眼を伏せて、「ええ、何も――」と答えましたが、すぐにまた哀訴するような眼なざしを恐る恐る泰さんの顔へ挙げて、「やっと正気になりました時には、もう夜が明けて居りましたんです。」と、怨《うら》めしそうにつけ加えると、急に袂《たもと》を顔へ当てて、忍び泣きに咽《むせ》び入りました。そう云う内にも外の天気は、まだ晴れ間も見えないばかりか、雷は今にも落ちかかるかと思うほど、殷々《いんいん》と頭上に轟き渡って、その度に瞳を焼くような電光が、しっきりなく蓆屋根《むしろやね》の下へも閃《ひらめ》いて来ます。すると今まで身動きもしなかった新蔵が、何と思ったか突然立ち上ると、凄じく血相《けっそう》を変えたまま、荒れ狂う雨と稲妻との中へ、出て行きそうにするじゃありませんか。しかもその手には、いつの間にか、石切りが忘れて行ったらしい鑿《のみ》を提《さ》げているのです。これを見た泰さんは、蛇の目をそこへ抛り出すが早いか、やにわに後から追いすがって、抱くように新蔵の肩を抑えました。「おい、気でも違ったのか。」――思わずこう泰さんは怒鳴りつけながら、無理に相手を引き戻そうとすると、新蔵は別人のように上ずった声で、「離してくれ給え。もうこうなりゃ、僕が死ぬか、あの婆を殺すかよりほかはないんだ。」と、夢中で喚《わめ》き立てるのです。「莫迦《ばか》な事をするな。第一今日は鍵惣《かぎそう》も来合せていると云うじゃないか。だから僕が向うへ行って――」「鍵惣が何だ。お敏を妾にしようと云うやつが、君の頼みなんぞ聞くものか。それよりか僕を離してくれ給え。よ、友達甲斐に離してくれ給えったら。」「君はお敏さんの事を忘れたのか。君がそんな無謀な事をしたら、あの人はどうするんだ。」――二人がこう揉《も》み合っている間に、新蔵は優しい二つの腕が、わなわな震えながらも力強く、首のまわりに懸ったのを感じました。それから涙に溢れた涼しい眼が、限りなく悲しい光を湛《たた》えて、じっと彼の顔に注がれているのを眺めました。最後に大雨の音を縫って、ほとんど聞きとれないほどかすかな声が、「御一しょに死なせて下さいまし。」と、囁いたのを耳にしました。と同時に近くへ落雷があったのでしょう。天が裂けたような一声の霹靂《へきれき》と共に紫の火花が眼の前へ散乱すると、新蔵は恋人と友人とに抱かれたまま、昏々として気を失ってしまいました。
それから何日か経った後の事です。新蔵はやっと長い悪夢に似た昏睡状態《こんすいじょうたい》から覚めて見ると、自分は日本橋の家の二階で、氷嚢《ひょうのう》を頭に当てながら、静に横になっていました。枕元には薬罎《くすりびん》や検温器と一しょに、小さな朝顔の鉢があって、しおらしい瑠璃《るり》色の花が咲いていますから、大方《おおかた》まだ朝の内なのでしょう。雨、雷鳴、お島婆さん、お敏、――そんな記憶をぼんやり辿りながら、新蔵はふと眼を傍へ転ずると、思いがけなくそこの葭戸際《よしどぎわ》には、銀杏返《いちょうがえ》しの鬢《びん》がほつれた、まだ頬の色の蒼白いお敏が、気づかわしそうに坐っていました。いや、坐っているばかりか、新蔵が正気に返ったのを見ると、たちまちかすかに顔を赤らめて、「若旦那様、御気がつきなさいましたか。」と、つつましく声をかけたじゃありませんか。「お敏。」――新蔵はまだ夢を見ているような心もちで、こう恋人の名を呟《つぶや》きましたが、その時また枕もとで、「まあ、これでやっと安心した。――おっと、そのまま、そのまま、なるべく静にしていなくっちゃいけないぜ。」と、これもやはり思いがけない泰さんの声が聞えました。「君もいたのか。」「僕もいるしさ。君の阿母《おかあ》さんもここに御出でなさる。御医者様は今し方帰ったばかりだ。」――こんな問答を交換しながら、新蔵は眼をお敏から返して、まるで遠い所の物でも見るように、うっとりと反対の側を眺めると、成程泰さんと母親とが、ほっとしたような顔を見合せて、枕もとに近く坐っています。が、やっと正気に返った新蔵には、あの恐しい大雷雨の後、どうして日本橋の家へ帰って来たのか、さらにそう云う消息がのみこめませんから、しばらくはただ茫然と三人の顔ばかり眺めていました。が、その内に母親は優しく新蔵の顔を覗《のぞ》きこんで、「もう何事も無事に治まったからね、この上はお前もよく養生をして、一日も早く丈夫な体になってくれなけりゃいけませんよ。」と、劬《いた》わるように言葉をかけました。すると泰さんもその後から、「安心し給え。君たち二人の思が神に通じたんだよ。お島婆さんは鍵惣《かぎそう》と話している内に、神鳴りに打たれて死んでしまった。」と、いつもよりも快活に云い添えるのです。新蔵はこの意外な吉報を聞くと同時に、喜びとも悲しみとも名状し難い、不思議な感動に蕩揺《とうよう》されて、思わず涙を頬に落すと、そのまま眼をとざしてしまいました。それが看護をしていた三人には、また失神したとでも思われたのでしょう。急に皆そわそわ立ち騒ぐようなけはいがし出しましたから、新蔵はまた眼を開くと、腰を浮かせかけていた泰さんが、わざと大袈裟《おおげさ》に舌打ちをして、「何だ。驚かせるぜ。――御安心なさい。今泣いた烏がもう笑っています。」と、二人の女の方をふり返りました。実際新蔵はもうこの世の中にあの怪しい婆の影がささなくなったのだと考えると、自然と微笑が唇に浮んで来るのを感じたのです。それからまたしばらくの間、この幸福な微笑を楽んだ後で、新蔵は泰さんの顔へ眼をやりながら、「鍵惣は?」と尋ねました。と、泰さんは笑いながら、「鍵惣か。鍵惣は目をまわしただけだった。」と云って、何故かちょいとためらったようでしたが、やがて思い直したらしく、「僕は昨日見舞に行って、あの男自身の口から聞いたんだがね。お敏さんは神を下された時に、君たち二人の恋の邪魔《じゃま》をすれば、あの婆の命に関ると、繰返し繰返し云ったそうだ。が、あの婆は狂言だと思ったので、明くる日鍵惣が行った時に、この上はもう殺生《せっしょう》な事をしても、君たち二人の仲を裂くとか、大いに息まいていたらしいよ。して見ると、僕の計画は、失敗に終ったのに違いないんだが、そのまた計画通りの事が、実際は起っていたんだろうじゃないか。しかしお島婆さんがそれを狂言だと思った揚句、とうとう自滅したなんぞは、どう考えても予想外だね。これじゃ婆娑羅《ばさら》の神と云うのも、善だか悪だかわからなくなった。」と、怪訝《けげん》そうに話して聞かせるのです。こう云う話を聞くにつけても、新蔵はいよいよこの間から、自分を掌中に弄んだ、幽冥《ゆうめい》の力の怪しさに驚かないではいられませんでしたが、たちまちまた自分はあの雷雨の日以来、どうしていたのだろうと思い出しましたから、「じゃ僕は。」と尋ねますと、今度はお敏が泰さんに代って、「あの石河岸からすぐ車で、近所の御医者様へ御つれ申しましたが、雨に御打たれなすったせいか、大層御熱が高くなって、日の暮にこちらへ御帰りになっても、まるで正気ではいらっしゃいませんでした。」と、しみじみした調子で口を添えました。これを聞くと泰さんも、満足そうに膝をのり出して、「その熱がやっと引いたのは、全く君のお母さんとお敏さんとのおかげだよ。今日でまる三日の間、譫言《うわごと》ば
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