内に、ばたばた後から駈けて来るものがありますから、二人とも、同時に振返って見ると、別に怪しいものではなく、泰さんの店の小僧が一人、蛇《じゃ》の目《め》を一本肩にかついで、大急ぎで主人の後を追いかけて来たのです。「傘か。」「へえ、番頭さんが降りそうですから御持ちなさいましって云いました。」「そんならお客様の分も持ってくりゃ好いのに。」――泰さんは苦笑しながら、その蛇の目を受取ると、小僧は生意気に頭を掻いてから、とってつけたように御辞儀をして、勢いよく店の方へ駈けて行ってしまいました。そう云えば成程頭の上にはさっきよりも黒い夕立雲が、一面にむらむらと滲み渡って、その所々を洩れる空の光も、まるで磨いた鋼鉄のような、気味の悪い冷たさを帯びているのです。新蔵は泰さんと一しょに歩きながら、この空模様を眺めると、また忌わしい予感に襲われ出したので、自然相手との話もはずまず、無暗《むやみ》に足ばかり早め出しました。ですから泰さんは遅れ勝ちで、始終小走りに追いついては、さも気忙《きぜわ》しそうに汗を拭いていましたが、その内にとうとうあきらめたのでしょう。新蔵を先へ立たせたまま、自分は後から蛇の目の傘を下げて、時々友だちの後姿を気の毒そうに眺めながら、ぶらぶら歩いて行きました。すると二人が一の橋の袂《たもと》を左へ切れて、お敏と新蔵とが日暮《ひぐれ》に大きな眼の幻を見た、あの石河岸の前まで来た時、後から一台の車が来て、泰さんの傍を走り抜けましたが、その車の上の客の姿を見ると、泰さんは急に眉をひそめて、「おい、おい。」と、けたたましく新蔵を呼び止めるじゃありませんか。そこで新蔵もやむを得ず足を止めて、不承不承《ふしょうぶしょう》に相手を見返りながら、うるさそうに「何だい。」と答えると、泰さんは急ぎ足に追いついて、「君は今、車へ乗って通った人の顔を見たかい。」と、妙な事を尋ねるのです。「見たよ。痩せた、黒い色眼鏡をかけている男だろう。」――新蔵はいぶかしそうにこう云いながら、またさっさと歩き出しましたが、泰さんはさらにひるまないで、前よりも一層重々しく、「ありゃね、君、僕の家の上華客《じょうとくい》で、鍵惣《かぎそう》って云う相場師《そうばし》だよ。僕は事によるとお敏さんを妾《めかけ》にしたいと云っているのは、あの男じゃないかと思うんだがどうだろう。いや、格別何故って訣《わけ》もないんだが、ふとそんな気がし出したんだ。」と、思いもよらない事を云い出しました。が、新蔵はやはり沈んだ調子で、「気だけだろう。」と云い捨てたまま、例の桃葉湯の看板さえ眺めもせずに歩いて行くのです。と、泰さんは蛇の目の傘で二人の行く方を指さしながら、「必ずしも気だけじゃないよ。見給え。あの車はお島婆さんの家の前へ、ちゃんと止っているじゃないか。」と得意らしく新蔵の顔を見返しました。見ると実際さっきの車は、雨を待っている葉柳《はやなぎ》が暗く条を垂らした下に、金紋のついた後をこちらへ向けて、車夫は蹴込《けこ》みの前に腰をかけているらしく、悠々と楫棒《かじぼう》を下ろしているのです。これを見た新蔵は、始めて浮かぬ顔色の底に、かすかな情熱を動かしながら、それでもまだ懶《ものう》げな最初の調子を失わないで、「だがね、君、あの婆に占を見て貰いに来る相場師だって、鍵惣とかのほかにもいるだろうじゃないか。」と面倒臭そうに答えましたが、その内にもうお島婆さんの家と隣り合った、左官屋の所まで来かかったからでしょう。泰さんはその上自説も主張しないで、油断なくあたりに気をくばりながら、まるで新蔵の身をかばうように、夏羽織の肩を摺り合せて、ゆっくり、お島婆さんの家の前を通りすぎました。通りすぎながら、二人が尻眼に容子《ようす》を窺うと、ただふだんと変っているのは、例の鍵惣が乗って来た車だけで、これは遠くで眺めたのよりもずっと手前、ちょうど左官屋の水口の前に太ゴムの轍《わだち》を威かつく止めて、バットの吸殻を耳にはさんだ車夫が、もっともそうに新聞を読んでいます。が、そのほかは竹格子の窓も、煤《すす》けた入口の格子戸も、乃至《ないし》はまだ葭戸《あしど》にも変らない、格子戸の中の古ぼけた障子の色も、すべてがいつもと変らないばかりか、家内もやはり日頃のように、陰森《いんしん》とした静かさが罩《こ》もっているように思われました。まして万一を僥倖《ぎょうこう》して来た、お敏の姿らしいものは、あのしおらしい紺絣の袂が、ひらめくのさえ眼にはいりません。ですから二人はお島婆さんの家の前を隣の荒物屋の方へ通りぬけると、今までの心の緊張が弛《ゆる》んだと云う以外にも、折角の当てが外《はず》れたと云う落胆まで背負わずにはいられませんでした。
ところがその荒物屋の前へ来ると、浅草紙、亀《かめ》の子《こ》束子《だわし》、髪洗粉などを並べた上に、蚊やり線香と書いた赤提燈が、一ぱいに大きく下っている――その店先へ佇《たたず》んで、荒物屋のお上さんと話しているのは、紛《まぎ》れもないお敏だろうじゃありませんか。二人は思わず顔を見合せると、ほとんど一秒もためらわずに、夏羽織の裾を飜《ひるがえ》しながら、つかつかと荒物屋の店へはいりました。そのけはいに気がついて、二人の方を振り向いたお敏は、見る見る蒼白い頬の底にほのかな血の色を動かしましたが、さすがに荒物屋のお上さんの手前も兼ねなければならなかったのでしょう。軒先へ垂れている柳の条を肩へかけたまま、無理に胸の躍るのを抑えるらしく、「まあ。」とかすかな驚きの声を洩らしたとか云う事です。すると泰さんは落着き払って、ちょいと麦藁帽子の庇《ひさし》へ手をやりながら、「阿母《おかあ》さんは御宅ですか。」と、さりげなく言葉をかけました。「はあ、居ります。」「で、あなたは?」「御客様の御用で半紙を買いに――」――こう云うお敏の言葉が終らない内に、柳に塞がれた店先が一層うす暗くなったと思うとたちまち蚊やり線香の赤提燈の胴をかすめて、きらりと一すじ雨の糸が冷たく斜に光りました。と同時に柳の葉も震えるかと思うほど、どろどろと雷が鳴ったそうです。泰さんはこれを切っかけに、一足店の外へ引返しながら、「じゃちょいと阿母《おかあ》さんにそう云って下さい。私がまた見てお貰い申したい事があって上りましたって――今も御門先で度々御免と声をかけたんだが、一向音沙汰がないんでね、どうしたのかと思ったら、肝腎《かんじん》の御取次がここで油を売っていたんです。」と、お敏と荒物屋のお上さんとを等分に見比べて、手際よく快活に笑って見せました。勿論何も知らない荒物屋のお上さんは、こう云う泰さんの巧《たくみ》な芝居に、気がつく筈もありませんから、「じゃお敏さん、早く行ってお上げなさいよ。」と、気忙《きぜ》わしそうに促すと、自分も降り出した雨に慌《あわ》てて、蚊やり線香の赤提燈を※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そうそう》とりこめに立ったと云います。そこでお敏も、「じゃ叔母さん、また後程。」と挨拶《あいさつ》を残して、泰さんと新蔵とを左右にしながら、荒物屋の店を出ましたが、元より三人ともお島婆さんの家の前には足も止めず、もう点々と落ちて来る大粒な雨を蛇の目に受けて、一つ目の方へ足を早めました。実際その何分かの間は、当人同志は云うまでもなく、平常は元気の好い泰さんさえ、いよいよ運命の賽《さい》を投げて、丁《ちょう》か半《はん》かをきめる時が来たような気がしたのでしょう。あの石河岸の前へ来るまでは、三人とも云い合せたように眼を伏せて、見る間に土砂降りになって来た雨も気がつかないらしく、無言で歩き続けました。
その内に御影《みかげ》の狛犬《こまいぬ》が向い合っている所まで来ると、やっと泰さんが顔を挙げて、「ここが一番安全だって云うから、雨やみ旁々《かたがた》この中で休んで行こう。」と、二人の方を振り返りました。そこで皆一つ傘の下に雨をよけながら、積み上げた石と石との間をぬけて、ふだんは石切りが仕事をする所なのでしょう。石河岸の隅に張ってある蓆屋根《むしろやね》の下へはいりました。その時は雨も益々凄じくなって、竪川を隔てた向う河岸も見えないほど、まっ白にたぎり落ちていましたから、この一枚の蓆屋根くらいでは、到底洩らずにすむ訣《わけ》もありません。のみならず、霧のような雨のしぶきも、湿った土の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》と一しょに、濛々《もうもう》と外から吹きこんで来ます。そこで三人は蓆屋根の下にはいりながらも、まだ一本の蛇の目を頼みにして、削《けず》りかけたままになっている門柱らしい御影の上に、目白押しに腰を下しました。と、すぐに口を切ったのは新蔵です。「お敏、僕はもうお前に逢えないかと思っていた。」――こう云う内にまた雨の中を斜に蒼白い電光が走って、雲を裂くように雷が鳴りましたから、お敏は思わず銀杏返《いちょうがえ》しを膝の上へ伏せて、しばらくはじっと身動きもしませんでしたが、やがて全く色を失った顔を挙げると、夢現《ゆめうつつ》のような目なざしをうっとりと外の雨脚へやって、「私ももう覚悟はして居りました。」と気味の悪いほど静に云いました。心中――そう云う穏ならない文字が、まるで燐《りん》ででも書いたように、新蔵の頭脳へ焼きついたのは、実にこのお敏の言葉を聞いた、瞬間だったと云う事です。が、二人の間に腰を据えて、大きく蛇の目をかざしていた泰さんは、左右へ当惑そうな眼を配りながら、それでも声だけは元気よく、「おい、しっかりしなくっちゃいけないぜ。お敏さんも勇気を出すんです。得てこう云う時には死神が、とっ着きたがるものですからね。――そりゃそうと今来ているお客は、鍵惣《かぎそう》って云う相場師《そうばし》でしょう。ええ、私もちょいと知っているんです。あなたを妾《めかけ》にしたいって云うのは、あの男じゃないんですか。」と、早速実際的な方面へ話を移してしまいました。するとお敏も急に夢から覚めたように、涼しい眼を泰さんの顔に注ぎながら、「ええ、あの人なんでございます。」と、口惜しそうに答えたそうです。「それ見給え。やっぱり僕の見込んだ通りじゃないか。」――こう云って泰さんは、得意らしく新蔵の方を見返りましたが、すぐにまた真面目な調子になって、劬《いたわ》るようにお敏の方へ向いながら、「この降りじゃ、いくら鍵惣でもまだ二十分や三十分は御宅にいるでしょう。その間に一つ、私の計画がどうなったか話して聞かせて下さい。もし万事休したとなりゃ、男は当って砕《くだ》けろだ。私がこれから御宅へ行って、直接鍵惣に懸合って見ますから。」と、新蔵の耳にも頼母《たのも》しいほど、男らしく云い切りました。その間も雷はいよいよ烈しくなって、昼ながらも大幅な稲妻が、ほとんど絶え間なく滝のような雨をはたいていましたが、お敏はもうその悲しさをさえ忘れるくらい、必死を極めていたのでしょう。顔も美しいと云うよりは、むしろ凄いようなけはいを帯びて、こればかりは変らない、鮮《あざやか》な唇を震わせながら、「それがみんな裏を掻かれて、――もう何も彼も駄目でございますわ。」と、細く透る声で答えました。それからお敏が、この雷雨の蓆屋根の下で、残念そうに息をはずませながら、途切れ途切れに物語った話を聞くと、新蔵の知らない泰さんの計画と云うのは、たった昨夜一晩の内に、こんな鋭い曲折を作って、まんまと失敗してしまったのです。
泰さんは始《はじめ》新蔵から、お島婆さんがお敏へ神を下して、伺いを立てると云う事を聞いた時に、咄嗟《とっさ》に胸に浮んだのは、その時お敏が神憑《かみがか》りの真似《まね》をして、あの婆に一杯食わせるのが一番近道だと云う事でした。そこで前にも云った通り、家相を見て貰うのにかこつけて、お島婆さんの所へ行った時に、そっとその旨を書いた手紙をお敏に手渡して来たのです。お敏もこの計画を実行するのは、随分あぶない橋を渡るようなものだとは思いましたが、何しろ差当ってそのほかに、目前の災難を切り抜ける妙案も思い当りませんから、明くる日の朝
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