云う言葉の途中から、泰さんの声ばかりでなく、もう一人誰かの声がはいりました。もっともこの声と云うのも、何と云っているのだか、言葉は皆目《かいもく》わからないのですが、とにかく勢いの好い泰さんの声とは正反対に、鼻へかかった、力のない、喘《あえ》ぐような、まだるい声が、ちょうど陰と日向《ひなた》とのように泰さんの饒舌《しゃべ》って行く間を縫って、受話器の底へ流れこむのです。始めの内は新蔵も、混線だろうくらいな量見で、別に気にもしませんでしたから、「それから、それから。」と促し立てて、懐しいお敏の消息を、夢中になって聞いていました。が、その内に泰さんにも、この妙な声が聞えたのでしょう。「何だか騒々しいな。君の方かい。」と尋ねますから、「いや僕の方じゃない。混線だろう。」と答えますと、泰さんはちょいと舌打ちをした気色で、「じゃ一度切って、またかけ直すぜ。」と云いながら、一度所か二度も三度も、交換手に小言を云っちゃ、根気よく繋《つな》ぎ直させましたが、やはり蟇《がま》の呟《つぶや》くような、ぶつぶつ云う声が聞えるのです。泰さんもしまいには我を折って、「仕方がないな。どこかに故障があるんだろう。――が、それより肝腎《かんじん》の本筋だがね、いよいよお敏さんが承知したとなりゃ、まあ、万々計画通り成功するだろうと思うから、安心して吉報を待ってい給え。」と、またさっきの話を続け出しましたが、新蔵はやはり泰さんの計画と云うのが気になるので、もう一遍昨日のように、「一体何をどうする心算《つもり》なんだ。」と尋ねますと、相手は例のごとく澄ましたもので、「もう一日辛抱し給え。明日の今時分までにゃ、きっと君にも知らせられるだろうと思うから。――まあ、そんなに急がないで、大船に乗った気で待っているさ。果報は寝て待てって云うじゃないか。」と、冗談《じょうだん》まじりに答えました。するとその声がまだ終らない内に、もう一つのぼやけた声が急に耳の側へ来て、「悪あがきは思い止らっしゃれや。」と、はっきり嘲笑《あざわら》ったじゃありませんか。泰さんと新蔵とは思わず同時に両方から、「何だ、今の声は。」と尋ね合いましたが、それぎり受話器の中はひっそりして、あの呟くような鼻声さえ全く聞えなくなってしまいました。「こりゃいけない。今のは君、あの婆だぜ。悪くすると、折角の計画も――まあ、すべてが明日の事だ。じゃこれで失敬するよ。」――こう云いながら、電話を切った泰さんの声の中には、明かに狼狽《ろうばい》したけはいが感じられました。また実際お島婆さんが、二人の間の電話にさえ気を配るようになったとすると、勿論泰さんとお敏とが秘密の手紙をやりとりしているにも、目をつけているのに相違ありませんから、泰さんの慌てるのももっともなのです。まして新蔵の身になって見れば、どうする心算か知らないにもせよ、とにかくかけ換のない泰さんの計画が、あの婆に裏を掻《か》かれる以上、それこそ万事休してしまうよりほかはありません。ですから新蔵は電話口を離れると、まるで喪心《そうしん》した人のように、ぼんやり二階の居間へ行って、日が暮れるまで、窓の外の青空ばかり眺めていました。その空にも気のせいか、時々あの忌わしい烏羽揚羽《うばあげは》が、何十羽となく群を成して、気味の悪い更紗模様《さらさもよう》を織り出した事があるそうですが、新蔵はもう体も心もすっかり疲れ果てていましたから、その不思議を不思議として、感じる事さえ出来なかったと云います。
その晩もまた新蔵は悪夢ばかり見続けて、碌々《ろくろく》眠る事さえ出来ませんでしたが、それでも夜が明けると、幾分か心に張りが出ましたので、砂を噛むより味のない朝飯をすませると、早速泰さんへ電話をかけました。「莫迦《ばか》に、早いじゃないか。僕のような朝寝坊の所へ、今時分電話をかけるのは残酷《ざんこく》だよ。」――泰さんは実際まだ眠むそうな声で、こう苦情を申し立てましたが、新蔵はそれには返事もしないで、「僕はね、昨日の電話の一件があって以来、とても便々と家にゃいられないからね。これからすぐに君の所へ行くよ。いいえ、電話で君の話を聞いたくらいじゃ、とても気が休まらないんだ。好いかい。すぐに行くからね。」と、だだっ子のように云い張ったそうです。この興奮し切った口調を聞いちゃ、泰さんもほかに仕方がなかったのでしょう。「じゃ来給え。待っているから。」と、素直に答えてくれたので、新蔵は電話を切るが早いか、心配そうな母親にもむずかしい顔を見せただけで、どこへ行くとも断らずに、ふいと店を飛び出しました。出て見ると、空はどんよりと曇って、東の方の雲の間に赤銅色の光が漂っている、妙に蒸暑い天気でしたが、元よりそんな事は気にかける余裕もなく、すぐ電車へ飛び乗って、すいているのを幸と、まん中の座席へ腰を下したそうです。すると一時恢復したように見えた疲労が、意地悪くまだ残っていたのか、新蔵は今更のように気が沈んで、まるで堅い麦藁帽子《むぎわらぼうし》が追々頭をしめつけるのかと思うほど、烈しい頭痛までして来ました。そこで気を紛《まぎら》せたい一心から、今まで下駄の爪先ばかりへやっていた眼を、隣近所へ挙げて見ると、この電車にもまた不思議があった。――と云うのは、天井の両側に行儀よく並んでいる吊皮《つりかわ》が、電車の動揺するのにつれて、皆|振子《ふりこ》のように揺れていますが、新蔵の前の吊皮だけは、始終じっと一つ所に、動かないでいるのです。それも始は可笑《おか》しいなくらいな心もちで、深くは気にも止めませんでしたが、その内にまた誰かに見つめられているような、気味の悪い心もちが自然に強くなり出したので、こんな吊皮の下に坐っているのが、いけないのだろうと思いましたから、向う側の隅にある空席へわざわざ移りました。移って、ふと上を見ると、今まで揺られていた吊皮が突然造りつけたように動かなくなって、その代りさっきの吊皮が、さも自由になったのを喜ぶらしく、勢いよくぶらつき始めたじゃありませんか。新蔵は毎度の事ながら、この時もやはり頭痛さえ忘れるほど、何とも云えない恐怖《きょうふ》を感じて、思わず救いを求めるごとく、ほかの乗客たちの顔を見廻しました。と、斜に新蔵と向い合った、どこかの隠居らしい婆さんが一人、黒絽《くろろ》の被布《ひふ》の襟を抜いて、金縁の眼鏡越しにじろりと新蔵の方を見返したのです。勿論それはあの神下しの婆なぞとは何の由縁《ゆかり》もない人物だったのには相違ありませんが、その視線を浴びると同時に、新蔵はたちまちお島婆さんの青んぶくれの顔を思い出しましたから、もう矢も楯もたまりません。いきなり切符を車掌へ渡すと、仕事を仕損じた掏摸《すり》より早く、電車を飛び降りてしまいました。が、何しろ凄まじい速力で、進行していた電車ですから、足が地についたと思うと、麦藁帽子が飛ぶ。下駄の鼻緒《はなお》が切れる。その上俯向きに前へ倒れて、膝頭《ひざがしら》を摺剥《すりむ》くと云う騒ぎです。いや、もう少し起き上るのが遅かったら、砂煙を立てて走って来た、どこかの貨物自働車に、轢《ひ》かれてしまった事でしょう。泥だらけになった新蔵は、ガソリンの煙を顔に吹きつけて、横なぐれに通りすぎた、その自働車の黄色塗の後に、商標らしい黒い蝶の形を眺めた時、全く命拾いをしたのが、神業のような気がしたそうです。
それが鞍掛橋《くらかけばし》の停留場へ一町ばかり手前でしたが、仕合せと通りかかった辻車が一台あったので、ともかくもその車へ這い上ると、まだ血相を変えたまま、東両国へ急がせました。が、その途中も動悸《どうき》はするし、膝頭の傷はずきずき痛むし、おまけに今の騒動があった後ですから、いつ何時この車もひっくり返りかねないような、縁起の悪い不安もあるし、ほとんど生きている空はなかったそうです。殊に車が両国橋へさしかかった時、国技館の天に朧銀《おぼろぎん》の縁をとった黒い雲が重なり合って、広い大川の水面に蜆《しじみ》蝶の翼のような帆影が群っているのを眺めると、新蔵はいよいよ自分とお敏との生死の分れ目が近づいたような、悲壮な感激に動かされて、思わず涙さえ浮めました。ですから車が橋を渡って、泰さんの家の門口へやっと梶棒を下した時には、嬉しいのか、悲しいのか、自分にも判然しないほど、ただ無性に胸が迫って、けげんな顔をしている車夫の手へ、方外《ほうがい》な賃銭を渡す間も惜しいように、倉皇《そうこう》と店先の暖簾《のれん》をくぐりました。
泰さんは新蔵の顔を見ると、手をとらないばかりにして、例の裏座敷へ通しましたが、やがてその手足の創痕《きずあと》だの、綻《ほころ》びの切れた夏羽織だのに気がついたものと見えて、「どうしたんだい。その体裁は。」と、呆れたように尋ねました。「電車から落っこってね、鞍掛橋の所で飛び降りをしそくなったもんだから。」「田舎者《いなかもの》じゃあるまいし、――気が利かないにも、ほどがあるぜ。だが何だってまた、あんな所で、飛び降りなんぞしたんだろう。」――そこで新蔵は電車の中で出会った不思議を、一々泰さんに話して聞かせました。すると泰さんは熱心にその一部始終を聞き終ってから、いつになく眉をひそめて、「形勢いよいよ非だね。僕はお敏さんが失敗したんじゃないかと思うんだが。」と独り言のように云うのです。新蔵はお敏の名前を聞くと、急にまた動悸が高まるような気がしましたから、「失敗したんじゃないかって? 君は一体お敏に何をやらせようとしたんだ。」と、詰問《きつもん》するごとく尋ねました。けれども泰さんはその問には答えないで、「もっともこうなるのも僕の罪かも知れないんだ。僕がお敏さんへ手紙を渡した事なんぞを、電話で君にしゃべらなかったら、あの婆も僕の計画には感づかずにいたのに違いないんだからな。」と、いかにも当惑したらしいため息さえ洩らすのです。新蔵はいよいよたまらなくなって、「今になってもまだ君の計画を知らせてくれないと云うのは、あんまり君、残酷《ざんこく》じゃないか。そのおかげで僕は、二重の苦しみをしなけりゃならないんだ。」と、声を震わせながら怨じ立てると、泰さんは「まあ。」と抑えるような手つきをして、「そりゃ重々もっともだよ。もっともだと云う事は僕もよく承知しているんだが、あの婆を相手にしている以上、これも已《や》むを得ない事だと思ってくれ給え。現に今も云った通り、僕はお敏さんへ手紙を渡した事も、君に打明けずに黙っていたら、もっと万事好都合に、運んだかも知れないと思っているんだ。何しろ君の一言一動は、皆、お島婆さんにゃ見透しらしいからね。いや、事によると、この間の電話の一件以来、僕も随分あの婆に睨《にら》まれていないもんでもない。が、今までの所じゃ、とにかく僕には君ほどの不思議な事件も起らないんだから、実際僕の計画が失敗したのかどうか、それがはっきり分るまでは、いくら君に恨《うら》まれても、一切僕の胸一つにおさめて置きたいと思うんだ。」と、諭《さと》したり慰めたりしてくれました。が、新蔵はそう聞いた所で、泰さんの云う事には得心出来ても、お敏の安否を気使う心に変りのある筈はありませんから、まだ険しい表情を眉の間に残したまま、「それにしても君、お敏の体に間違いのあるような事はないだろうね。」と、突っかかるように念を押すと、泰さんもやはり心配そうな眼つきをして、「さあ。」と云ったぎり、しばらくは思案《しあん》に沈んでいましたが、やがてちょいと次の間の柱時計を覗《のぞ》きながら、「僕もそれが気になって仕方がないんだ。じゃあの婆の家へは行かないでも、近所まで偵察《ていさつ》に行って見ようか。」と、思い切ったらしく云うのです。新蔵も実は悠長にこうして坐りこんでいるのが、気が気でなかった所ですから、勿論いやと言う筈はありません。そこですぐに相談が纏《まとま》って、ものの五分と経たない内に、二人は夏羽織の肩を並べながら、※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そうそう》泰さんの家を出ました。
所が泰さんの家を出て、まだ半町と行かない
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