かり云っている君の看病で、お敏さんは元より阿母《おかあ》さんも、まんじりとさえなさらないんだ。もっともお島婆さんの方は、追善心に葬式万端、僕がとりしきってやって来たがね。それもこれも阿母さんの御世話になっていない物はないんだよ。」と、末は励ますように述べ立てるのです。「阿母さん。難有《ありがと》う。」「何だね、お前、私より泰さんに御礼を申し上げなくっちゃ。」――こう云う内に親子とも、いや、お敏も、泰さんも、皆涙を浮べていました。が、泰さんは男だけに、すぐ元気な声を出して、「もうかれこれ三時でしょう。じゃ私は御暇《おいとま》しますかな。」と、半ば体を起しかけると、新蔵は不審《ふしん》そうに眉をよせて、「三時? 今はまだ朝じゃないのかい。」と、妙な事を尋ねるのです。呆気《あっけ》にとられた泰さんは、「冗談《じょうだん》云っちゃいけない。」と云いながら、帯の間の時計を抜いて、蓋を開けて見せそうにしましたが、ふと新蔵の眼が枕もとの朝顔の花に落ちているのを見ると、急に晴れ晴れした微笑を浮べて、こんな事を話して聞かせました。「この朝顔はね、あの婆の家にいた時から、お敏さんが丹精《たんせい》した鉢植なんだ。ところがあの雨の日に咲いた瑠璃色《るりいろ》の花だけは、奇体に今日まで凋《しぼ》まないんだよ。お敏さんは何でもこの花が咲いている限り、きっと君は本復するに違いないって、自分も信じりゃ僕たちにも度々云っていたものなんだ。その甲斐《かい》があって、君が正気に返ったんだから、同じ不思議な現象にしても、これだけはいかにも優しいじゃないか。」
[#地から1字上げ](大正八年九月二十二日)



底本:「芥川龍之介全集3」ちくま文庫、筑摩書房
   1986(昭和61)年12月1日第1刷発行
   1996(平成8)年4月1日第8刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1998年12月8日公開
2004年3月13日修正
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