いほど、一種の妖気《ようき》とも云うべき物が、陰々として私たちのまわりを立て罩《こ》めたような気がしたのですから。
 この当事者と云う男は、平常私の所へ出入をする、日本橋辺のある出版|書肆《しょし》の若主人で、ふだんは用談さえすませてしまうと、※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そうそう》帰ってしまうのですが、ちょうどその夜は日の暮からさっと一雨かかったので、始は雨止みを待つ心算《つもり》ででも、いつになく腰を落着けたのでしょう。色の白い、眉の迫った、痩《や》せぎすな若主人は、盆提灯《ぼんちょうちん》へ火のはいった縁先のうす明りにかしこまって、かれこれ初夜も過ぎる頃まで、四方山《よもやま》の世間話をして行きました。その世間話の中へ挟みながら、「是非一度これは先生に聞いて頂きたいと思って居りましたが。」と、ほとんど心配そうな顔色で徐《おもむろ》に口を切ったのが、申すまでもなく本文の妖婆《ようば》の話だったのです。私は今でもその若主人が、上布の肩から一なすり墨をぼかしたような夏羽織で、西瓜《すいか》の皿を前にしながら、まるで他聞でも憚《はばか》るように、小声でひそひそ話し出した容
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