ばかりだと、さほどこたえはしますまいが、寒中でもやはり湯巻き一つで、紛々と降りしきる霙《みぞれ》の中を、まるで人面の獺《うそ》のように、ざぶりと水へはいると云うじゃありませんか。一度などはお敏が心配して、電燈を片手に雨戸を開けながら、そっと川の中を覗いて見たら、向う岸の並蔵の屋根に白々と雪が残っているだけ、それだけ余計黒い水の上に、婆の切髪の頭だけが、浮巣のように漂っていたそうです。その代りこの婆のする事は、加持でも占でも験《げん》がある――と云うと、善い方ばかりのようですが、この婆に金を使って、親とか夫とか兄弟とかを呪《のろ》い殺したものも大勢いました。現にこの間この石河岸から身を投げた男なぞも、同じ柳橋の芸者とかに思をかけたある米問屋の主人の頼みで、あの婆が造作もなく命を捨てさせてしまったのだそうです。が、どう云う秘密な理由があるのか、一人でもそこで呪い殺された、この石河岸のような場所になると、さすがの婆の加持祈祷でも、そのまわりにいる人間には、害を加える事が出来ません。のみならず、そこでしている事は、千里眼同様な婆の眼にも、はいらずにすむようですから、それでお敏は新蔵を、わざわざ
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