い事にきめていたのです。ところが例の裸蝋燭の光を受けて、小さいながら爛々《らんらん》と輝いた鏡の面を見つめていると、いくら気を確かに持とうと思っていても、自然と心が恍惚《こうこつ》として、いつとなく我を忘れそうな危険に脅《おびやか》され始めました。そうかと云って、あの婆は、呪文を唱える暇もぬかりなく、じっとこちらの顔色を窺いすましているのですから、隙《すき》を狙《ねら》って鏡から眼を離すと云う訣《わけ》にも行きません。その内に鏡はお敏の視線を吸いよせるように、益々怪しげな光を放って、一寸ずつ、一分ずつ、宿命よりも気味悪く、だんだんこちらへ近づいて来ました。おまけにあの青んぶくれの婆が、絶え間なく呟く呪文の声も、まるで目に見えない蜘蛛《くも》の巣《す》のように、四方からお敏の心を搦《から》んで、いつか夢とも現《うつつ》ともわからない境へ引きずりこもうとするのです。それがどのくらいかかったか、お敏自身も後になって考えたのでは、朧《おぼろ》げな記憶さえ残っていません。が、ともかくも自分には一晩中とも思われるほど、長い長い間続いた後で、とうとうお敏は苦心の甲斐もなく、あの婆の秘法の穽《あな》に陥れられてしまったのでしょう。うす暗い裸蝋燭の火がまたたく中に、大小さまざまの黒い蝶が、数限りもなく円を描いて、さっと天井へ舞上ったと思うと、そのまま目の前の鏡が見えなくなって、いつもの通り死人も同様な眠に沈んでしまいました。
お敏は雷鳴と雨声との中に、眼にも唇にも懸命の色を漲《みなぎ》らせて、こう一部始終を語り終りました。さっきから熱心に耳を傾けていた泰さんと新蔵とは、この時云い合せたように吐息《といき》をして、ちらりと視線を交せましたが、兼て計画の失敗は覚悟していても、一々その仔細《しさい》を聞いて見ると、今度こそすべてが画餅《がへい》に帰したと云う、今更らしい絶望の威力を痛切に感じたからでしょう。しばらくは二人とも唖《おし》のように口を噤《つぐ》んだまま、天を覆して降る豪雨の音を茫然とただ聞いていました。が、その内に泰さんは勇気を振い起したと見えて、今まで興奮し切っていた反動か、見る見る陰鬱になり出したお敏に向って、「その間の事は何一つまるで覚えていないのですか。」と、励ますように尋ねたそうです。と、お敏は眼を伏せて、「ええ、何も――」と答えましたが、すぐにまた哀訴するような眼なざしを恐る恐る泰さんの顔へ挙げて、「やっと正気になりました時には、もう夜が明けて居りましたんです。」と、怨《うら》めしそうにつけ加えると、急に袂《たもと》を顔へ当てて、忍び泣きに咽《むせ》び入りました。そう云う内にも外の天気は、まだ晴れ間も見えないばかりか、雷は今にも落ちかかるかと思うほど、殷々《いんいん》と頭上に轟き渡って、その度に瞳を焼くような電光が、しっきりなく蓆屋根《むしろやね》の下へも閃《ひらめ》いて来ます。すると今まで身動きもしなかった新蔵が、何と思ったか突然立ち上ると、凄じく血相《けっそう》を変えたまま、荒れ狂う雨と稲妻との中へ、出て行きそうにするじゃありませんか。しかもその手には、いつの間にか、石切りが忘れて行ったらしい鑿《のみ》を提《さ》げているのです。これを見た泰さんは、蛇の目をそこへ抛り出すが早いか、やにわに後から追いすがって、抱くように新蔵の肩を抑えました。「おい、気でも違ったのか。」――思わずこう泰さんは怒鳴りつけながら、無理に相手を引き戻そうとすると、新蔵は別人のように上ずった声で、「離してくれ給え。もうこうなりゃ、僕が死ぬか、あの婆を殺すかよりほかはないんだ。」と、夢中で喚《わめ》き立てるのです。「莫迦《ばか》な事をするな。第一今日は鍵惣《かぎそう》も来合せていると云うじゃないか。だから僕が向うへ行って――」「鍵惣が何だ。お敏を妾にしようと云うやつが、君の頼みなんぞ聞くものか。それよりか僕を離してくれ給え。よ、友達甲斐に離してくれ給えったら。」「君はお敏さんの事を忘れたのか。君がそんな無謀な事をしたら、あの人はどうするんだ。」――二人がこう揉《も》み合っている間に、新蔵は優しい二つの腕が、わなわな震えながらも力強く、首のまわりに懸ったのを感じました。それから涙に溢れた涼しい眼が、限りなく悲しい光を湛《たた》えて、じっと彼の顔に注がれているのを眺めました。最後に大雨の音を縫って、ほとんど聞きとれないほどかすかな声が、「御一しょに死なせて下さいまし。」と、囁いたのを耳にしました。と同時に近くへ落雷があったのでしょう。天が裂けたような一声の霹靂《へきれき》と共に紫の火花が眼の前へ散乱すると、新蔵は恋人と友人とに抱かれたまま、昏々として気を失ってしまいました。
それから何日か経った後の事です。新蔵はやっと長い悪夢に似た昏睡状態《こんすいじょ
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