うたい》から覚めて見ると、自分は日本橋の家の二階で、氷嚢《ひょうのう》を頭に当てながら、静に横になっていました。枕元には薬罎《くすりびん》や検温器と一しょに、小さな朝顔の鉢があって、しおらしい瑠璃《るり》色の花が咲いていますから、大方《おおかた》まだ朝の内なのでしょう。雨、雷鳴、お島婆さん、お敏、――そんな記憶をぼんやり辿りながら、新蔵はふと眼を傍へ転ずると、思いがけなくそこの葭戸際《よしどぎわ》には、銀杏返《いちょうがえ》しの鬢《びん》がほつれた、まだ頬の色の蒼白いお敏が、気づかわしそうに坐っていました。いや、坐っているばかりか、新蔵が正気に返ったのを見ると、たちまちかすかに顔を赤らめて、「若旦那様、御気がつきなさいましたか。」と、つつましく声をかけたじゃありませんか。「お敏。」――新蔵はまだ夢を見ているような心もちで、こう恋人の名を呟《つぶや》きましたが、その時また枕もとで、「まあ、これでやっと安心した。――おっと、そのまま、そのまま、なるべく静にしていなくっちゃいけないぜ。」と、これもやはり思いがけない泰さんの声が聞えました。「君もいたのか。」「僕もいるしさ。君の阿母《おかあ》さんもここに御出でなさる。御医者様は今し方帰ったばかりだ。」――こんな問答を交換しながら、新蔵は眼をお敏から返して、まるで遠い所の物でも見るように、うっとりと反対の側を眺めると、成程泰さんと母親とが、ほっとしたような顔を見合せて、枕もとに近く坐っています。が、やっと正気に返った新蔵には、あの恐しい大雷雨の後、どうして日本橋の家へ帰って来たのか、さらにそう云う消息がのみこめませんから、しばらくはただ茫然と三人の顔ばかり眺めていました。が、その内に母親は優しく新蔵の顔を覗《のぞ》きこんで、「もう何事も無事に治まったからね、この上はお前もよく養生をして、一日も早く丈夫な体になってくれなけりゃいけませんよ。」と、劬《いた》わるように言葉をかけました。すると泰さんもその後から、「安心し給え。君たち二人の思が神に通じたんだよ。お島婆さんは鍵惣《かぎそう》と話している内に、神鳴りに打たれて死んでしまった。」と、いつもよりも快活に云い添えるのです。新蔵はこの意外な吉報を聞くと同時に、喜びとも悲しみとも名状し難い、不思議な感動に蕩揺《とうよう》されて、思わず涙を頬に落すと、そのまま眼をとざしてしまいました。それが看護をしていた三人には、また失神したとでも思われたのでしょう。急に皆そわそわ立ち騒ぐようなけはいがし出しましたから、新蔵はまた眼を開くと、腰を浮かせかけていた泰さんが、わざと大袈裟《おおげさ》に舌打ちをして、「何だ。驚かせるぜ。――御安心なさい。今泣いた烏がもう笑っています。」と、二人の女の方をふり返りました。実際新蔵はもうこの世の中にあの怪しい婆の影がささなくなったのだと考えると、自然と微笑が唇に浮んで来るのを感じたのです。それからまたしばらくの間、この幸福な微笑を楽んだ後で、新蔵は泰さんの顔へ眼をやりながら、「鍵惣は?」と尋ねました。と、泰さんは笑いながら、「鍵惣か。鍵惣は目をまわしただけだった。」と云って、何故かちょいとためらったようでしたが、やがて思い直したらしく、「僕は昨日見舞に行って、あの男自身の口から聞いたんだがね。お敏さんは神を下された時に、君たち二人の恋の邪魔《じゃま》をすれば、あの婆の命に関ると、繰返し繰返し云ったそうだ。が、あの婆は狂言だと思ったので、明くる日鍵惣が行った時に、この上はもう殺生《せっしょう》な事をしても、君たち二人の仲を裂くとか、大いに息まいていたらしいよ。して見ると、僕の計画は、失敗に終ったのに違いないんだが、そのまた計画通りの事が、実際は起っていたんだろうじゃないか。しかしお島婆さんがそれを狂言だと思った揚句、とうとう自滅したなんぞは、どう考えても予想外だね。これじゃ婆娑羅《ばさら》の神と云うのも、善だか悪だかわからなくなった。」と、怪訝《けげん》そうに話して聞かせるのです。こう云う話を聞くにつけても、新蔵はいよいよこの間から、自分を掌中に弄んだ、幽冥《ゆうめい》の力の怪しさに驚かないではいられませんでしたが、たちまちまた自分はあの雷雨の日以来、どうしていたのだろうと思い出しましたから、「じゃ僕は。」と尋ねますと、今度はお敏が泰さんに代って、「あの石河岸からすぐ車で、近所の御医者様へ御つれ申しましたが、雨に御打たれなすったせいか、大層御熱が高くなって、日の暮にこちらへ御帰りになっても、まるで正気ではいらっしゃいませんでした。」と、しみじみした調子で口を添えました。これを聞くと泰さんも、満足そうに膝をのり出して、「その熱がやっと引いたのは、全く君のお母さんとお敏さんとのおかげだよ。今日でまる三日の間、譫言《うわごと》ば
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