ね。――そりゃそうと今来ているお客は、鍵惣《かぎそう》って云う相場師《そうばし》でしょう。ええ、私もちょいと知っているんです。あなたを妾《めかけ》にしたいって云うのは、あの男じゃないんですか。」と、早速実際的な方面へ話を移してしまいました。するとお敏も急に夢から覚めたように、涼しい眼を泰さんの顔に注ぎながら、「ええ、あの人なんでございます。」と、口惜しそうに答えたそうです。「それ見給え。やっぱり僕の見込んだ通りじゃないか。」――こう云って泰さんは、得意らしく新蔵の方を見返りましたが、すぐにまた真面目な調子になって、劬《いたわ》るようにお敏の方へ向いながら、「この降りじゃ、いくら鍵惣でもまだ二十分や三十分は御宅にいるでしょう。その間に一つ、私の計画がどうなったか話して聞かせて下さい。もし万事休したとなりゃ、男は当って砕《くだ》けろだ。私がこれから御宅へ行って、直接鍵惣に懸合って見ますから。」と、新蔵の耳にも頼母《たのも》しいほど、男らしく云い切りました。その間も雷はいよいよ烈しくなって、昼ながらも大幅な稲妻が、ほとんど絶え間なく滝のような雨をはたいていましたが、お敏はもうその悲しさをさえ忘れるくらい、必死を極めていたのでしょう。顔も美しいと云うよりは、むしろ凄いようなけはいを帯びて、こればかりは変らない、鮮《あざやか》な唇を震わせながら、「それがみんな裏を掻かれて、――もう何も彼も駄目でございますわ。」と、細く透る声で答えました。それからお敏が、この雷雨の蓆屋根の下で、残念そうに息をはずませながら、途切れ途切れに物語った話を聞くと、新蔵の知らない泰さんの計画と云うのは、たった昨夜一晩の内に、こんな鋭い曲折を作って、まんまと失敗してしまったのです。
 泰さんは始《はじめ》新蔵から、お島婆さんがお敏へ神を下して、伺いを立てると云う事を聞いた時に、咄嗟《とっさ》に胸に浮んだのは、その時お敏が神憑《かみがか》りの真似《まね》をして、あの婆に一杯食わせるのが一番近道だと云う事でした。そこで前にも云った通り、家相を見て貰うのにかこつけて、お島婆さんの所へ行った時に、そっとその旨を書いた手紙をお敏に手渡して来たのです。お敏もこの計画を実行するのは、随分あぶない橋を渡るようなものだとは思いましたが、何しろ差当ってそのほかに、目前の災難を切り抜ける妙案も思い当りませんから、明くる日の朝思い切って、「しょうちいたしました」と云う返事を泰さんに渡しました。ところがその晩の十二時に、例のごとくあの婆が竪川の水に浸った後で、いよいよ婆娑羅《ばさら》の神を祈り下し始めると、全く人間業では仕方のない障害のあるのを知ったのです。が、その仔細《しさい》を申し上げるのには、今の世にあろうとも思われない、あの婆の不思議な修法の次第を御話して置かなければなりますまい。お島婆さんはいざ神を下すとなると、あろう事かお敏を湯巻《ゆまき》一つにして、両手を後へ括《くく》り上げた上、髪さえ根から引きほどいて、電燈を消したあの部屋のまん中に、北へ向って坐らせるのだそうです。それから自分も裸のまま、左の手には裸蝋燭《はだかろうそく》をともし、右の手には鏡を執《と》って、お敏の前へ立ちはだかりながら、口の内に秘密の呪文《じゅもん》を念じて、鏡を相手につきつけつきつけ、一心不乱に祈念をこめる――これだけでも普通の女なら、気を失うのに違いありませんが、その内に追々呪文の声が高くなって来ると、あの婆は鏡を楯《たて》にしながら、少しずつじりじり詰めよせて、しまいには、その鏡に気圧《けお》されるのか、両手の利かないお敏の体が仰向《あおむ》けに畳へ倒れるまで、手をゆるめずに責めるのだと云う事です。しかもこうして倒してしまった上で、あの婆はまるで屍骸《しがい》の肉を食う爬虫類《はちゅうるい》のように這い寄りながら、お敏の胸の上へのしかかって、裸蝋燭の光が落ちる気味の悪い鏡の中を、下からまともにいつまでも覗かせるのだと云うじゃありませんか。するとほどなくあの婆娑羅の神が、まるで古沼の底から立つ瘴気《しょうき》のように、音もなく暗の中へ忍んで来て、そっと女の体へ乗移るのでしょう。お敏は次第に眼が据《すわ》って、手足をぴくぴく引き攣《つ》らせると、もうあの婆が口忙しく畳みかける問に応じて、息もつかずに、秘密の答を饒舌《しゃべ》り続けると云う事です。ですからその晩もお島婆さんは、こう云う手順を違えずに、神を祈下そうとしましたが、お敏は泰さんとの約束を守って、うわべは正気を失ったと見せながら、内心はさらに油断なく、機会さえあれば真しやかに、二人の恋の妨げをするなと、贋《にせ》の神託《しんたく》を下す心算《つもり》でいました。勿論その時あの婆が根掘り葉掘り尋ねる問などは、神慮に叶わない風を装って、一つも答えな
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