誘惑
――或シナリオ――
芥川龍之介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)天主教徒《てんしゅきょうと》の
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|艘《そう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)10[#「10」は縦中横]
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1
天主教徒《てんしゅきょうと》の古暦《ふるごよみ》の一枚、その上に見えるのはこう云う文字である。――
御出生来《ごしゅっしょうらい》千六百三十四年。せばすちあん記し奉る。
二月。小
二十六日。さんたまりやの御つげの日。
二十七日。どみいご。
三月。大
五日。どみいご、ふらんしすこ。
十二日。……………
2
日本の南部の或山みち。大きい樟《くす》の木の枝を張った向うに洞穴《ほらあな》の口が一つ見える。暫《しばら》くたってから木樵《きこ》りが二人。この山みちを下って来る。木樵りの一人は洞穴を指さし、もう一人に何か話しかける。それから二人とも十字を切り、はるかに洞穴を礼拝する。
3
この大きい樟の木の梢《こずえ》。尻《し》っ尾《ぽ》の長い猿が一匹、或枝の上に坐《すわ》ったまま、じっと遠い海を見守っている。海の上には帆前船《ほまえせん》が一|艘《そう》。帆前船はこちらへ進んで来るらしい。
4
海を走っている帆前船が一艘。
5
この帆前船の内部。紅毛人の水夫が二人、檣《ほばしら》の下に賽《さい》を転がしている。そのうちに勝負の争いを生じ、一人の水夫は飛び立つが早いか、もう一人の水夫の横腹へずぶりとナイフを突き立ててしまう。大勢の水夫は二人のまわりへ四方八方から集まって来る。
6
仰向《あおむ》けになった水夫の死に顔。突然その鼻の穴から尻っ尾の長い猿が一匹、顋《あご》の上に這《は》い出して来る。が、あたりを見まわしたと思うと忽《たちま》ち又鼻の穴の中へはいってしまう。
7
上から斜めに見おろした海面。急にどこか空中から水夫の死骸《しがい》が一つ落ちて来る。死骸は水けぶりの立った中に忽ち姿を失ってしまう。あとには唯《ただ》浪《なみ》の上に猿が一匹もがいているばかり。
8
海の向うに見える半島。
9
前の山みちにある樟の木の梢。猿はやはり熱心に海の上の帆前船を眺めている。が、やがて両手を挙げ、顔中に喜びを漲《みなぎ》らせる。すると猿がもう一匹いつか同じ枝の上にゆらりと腰をおろしている。二匹の猿は手真似《てまね》をしながら、暫く何か話しつづける。それから後に来た猿は長い尻っ尾を枝にまきつけ、ぶらりと宙に下ったまま、樟の木の枝や葉に遮られた向うを目の上に手をやって眺めはじめる。
10[#「10」は縦中横]
前の洞穴の外部。芭蕉や竹の茂った外には何もそこに動いていない。そのうちにだんだん日の暮になる。すると洞穴の中から蝙蝠《こうもり》が一匹ひらひらと空へ舞い上って行く。
11[#「11」は縦中横]
この洞穴の内部。「さん・せばすちあん」がたった一人岩の壁の上に懸けた十字架の前に祈っている。「さん・せばすちあん」は黒い法服を着た、四十に近い日本人。火をともした一本の蝋燭《ろうそく》は机だの水瓶《みずがめ》だのを照らしている。
12[#「12」は縦中横]
蝋燭の火《ほ》かげの落ちた岩の壁。そこには勿論《もちろん》はっきりと「さん・せばすちあん」の横顔も映っている。その横顔の頸《くび》すじを尻っ尾の長い猿の影が一つ静かに頭の上へ登りはじめる。続いて又同じ猿の影が一つ。
13[#「13」は縦中横]
「さん・せばすちあん」の組み合せた両手。彼の両手はいつの間にか紅毛人のパイプを握っている。パイプは始めは火をつけていない。が、見る見る空中へ煙草《たばこ》の煙を挙げはじめる。………
14[#「14」は縦中横]
前の洞穴の内部。「さん・せばすちあん」は急に立ち上り、パイプを岩の上へ投げつけてしまう。しかしパイプは不相変《あいかわらず》煙草の煙を立ち昇らせている。彼は驚きを示したまま、二度とパイプに近よらない。
15[#「15」は縦中横]
岩の上に落ちたパイプ。パイプは徐《おもむ》ろに酒を入れた「ふらすこ」の瓶に変ってしまう。のみならずその又「ふらすこ」の瓶も一きれの「花かすていら」に変ってしまう。最後にその「花かすていら」さえ今はもう食物《しょくもつ》ではない。そこには年の若い傾城《けいせい》が一人、艶《なまめか》しい膝《ひざ》を崩したまま、斜めに誰《たれ》かの顔を見上げている。………
16[#「16」は縦中横]
「さん・せばすちあん」の上半身《かみはんしん》。彼は急に十字を切る。それからほっとした表情を浮かべる。
17[#「17」は縦中横]
尻っ尾の長い猿が二匹一本の蝋燭の下に蹲《うずくま》っている。どちらも顔をしかめながら。
18[#「18」は縦中横]
前の洞穴の内部。「さん・せばすちあん」はもう一度十字架の前に祈っている。そこへ大きい梟《ふくろう》が一羽さっとどこからか舞い下って来ると、一|煽《あお》ぎに蝋燭の火を消してしまう。が、一すじの月の光だけはかすかに十字架を照らしている。
19[#「19」は縦中横]
岩の壁の上に懸けた十字架。十字架は又十字の格子《こうし》を嵌《は》めた長方形の窓に変りはじめる。長方形の窓の外は茅葺《かやぶ》きの家が一つある風景。家のまわりには誰もいない。そのうちに家はおのずから窓の前へ近よりはじめる。同時に又家の内部も見えはじめる。そこには「さん・せばすちあん」に似た婆さんが一人片手に糸車をまわしながら、片手に実のなった桜の枝を持ち、二三歳の子供を遊ばせている。子供も亦彼の子に違いない。が、家の内部は勿論、彼等もやはり霧のように長方形の窓を突きぬけてしまう。今度見えるのは家の後ろの畠《はたけ》。畠には四十に近い女が一人せっせと穂麦を刈り干している。………
20[#「20」は縦中横]
長方形の窓を覗《のぞ》いている「さん・せばすちあん」の上半身《かみはんしん》。但し斜めに後ろを見せている。明るいのは窓の外ばかり。窓の外はもう畠《はたけ》ではない。大勢の老若男女の頭が一面にそこに動いている。その又大勢の頭の上には十字架に懸った男女が三人高だかと両腕を拡《ひろ》げている。まん中の十字架に懸った男は全然彼と変りはない。彼は窓の前を離れようとし、思わずよろよろと倒れかかる。――
21[#「21」は縦中横]
前の洞穴《ほらあな》の内部。「さん・せばすちあん」は十字架の下の岩の上へ倒れている。が、やっと顔を起し、月明りの落ちた十字架を見上げる。十字架はいつか初《う》い初《う》いしい降誕の釈迦《しゃか》に変ってしまう。「さん・せばすちあん」は驚いたようにこう云う釈迦を見守った後、急に又立ち上って十字を切る。月の光の中をかすめる、大きい一羽の梟《ふくろう》の影。降誕の釈迦はもう一度もとの十字架に変ってしまう。………
22[#「22」は縦中横]
前の山みち。月の光の落ちた山みちは黒いテエブルに変ってしまう。テエブルの上にはトランプが一組。そこへ男の手が二つ現れ、静かにトランプを切った上、左右へ札を配りはじめる。
23[#「23」は縦中横]
前の洞穴の内部。「さん・せばすちあん」は頭を垂れ、洞穴の中を歩いている。すると彼の頭の上へ円光が一つかがやきはじめる。同時に又洞穴の中も徐《おもむ》ろに明るくなりはじめる。彼はふとこの奇蹟《きせき》に気がつき、洞穴のまん中に足を止める。始めは驚きの表情。それから徐ろに喜びの表情。彼は十字架の前にひれ伏し、もう一度熱心に祈りを捧げる。
24[#「24」は縦中横]
「さん・せばすちあん」の右の耳。耳たぶの中には樹木が一本累々と円い実をみのらせている。耳の穴の中は花の咲いた草原《くさはら》。草は皆そよ風に動いている。
25[#「25」は縦中横]
前の洞穴の内部。但し今度は外部に面している。円光を頂いた「さん・せばすちあん」は十字架の前から立ち上り、静かに洞穴の外へ歩いて行く。彼の姿の見えなくなった後、十字架はおのずから岩の上へ落ちる。同時に又|水瓶《みずがめ》の中から猿が一匹|躍《おど》り出し、怖《こ》わ怖《ご》わ十字架に近づこうとする。それからすぐに又もう一匹。
26[#「26」は縦中横]
この洞穴の外部。「さん・せばすちあん」は月の光の中に次第にこちらへ歩いて来る。彼の影は左には勿論《もちろん》、右にももう一つ落ちている。しかもその又右の影は鍔《つば》の広い帽子をかぶり、長いマントルをまとっている。彼はその上半身に殆《ほとん》ど洞穴の外を塞《ふさ》いだ時、ちょっと立ち止まって空を見上げる。
27[#「27」は縦中横]
星ばかり点々とかがやいた空。突然大きい分度器が一つ上から大股《おおまた》に下って来る。それは次第に下るのに従い、やはり次第に股を縮め、とうとう両脚を揃《そろ》えたと思うと、徐ろに霞《かす》んで消えてしまう。
28[#「28」は縦中横]
広い暗《やみ》の中に懸った幾つかの太陽。それ等の太陽のまわりには地球が又幾つもまわっている。
29[#「29」は縦中横]
前の山みち。円光を頂いた「さん・せばすちあん」は二つの影を落したまま、静かに山みちを下って来る。それから樟《くす》の木の根もとに佇《たたず》み、じっと彼の足もとを見つめる。
30[#「30」は縦中横]
斜めに上から見おろした山みち。山みちには月の光の中に石ころが一つ転がっている。石ころは次第に石斧《せきふ》に変り、それから又短剣に変り、最後にピストルに変ってしまう。しかしそれももうピストルではない。いつか又もとのように唯《ただ》の石ころに変っている。
31[#「31」は縦中横]
前の山みち。「さん・せばすちあん」は立ち止まったまま、やはり足もとを見つめている。影の二つあることも変りはない。それから今度は頭を挙げ、樟の木の幹を眺めはじめる。………
32[#「32」は縦中横]
月の光を受けた樟の木の幹。荒あらしい木の皮に鎧《よろ》われた幹は何も始めは現していない。が、次第にその上に世界に君臨した神々の顔が一つずつ鮮かに浮んで来る。最後には受難の基督《キリスト》の顔。最後には?――いや、「最後には」ではない。それも見る見る四つ折りにした東京××新聞に変ってしまう。
33[#「33」は縦中横]
前の山みちの側面。鍔の広い帽子にマントルを着た影はおのずから真っすぐに立ち上る。尤《もっと》も立ち上ってしまった時はもう唯の影ではない。山羊のように髯《ひげ》を伸ばした、目の鋭い紅毛人の船長である。
34[#「34」は縦中横]
この山みち。「さん・せばすちあん」は樟の木の下に船長と何か話している。彼の顔いろは重おもしい。が、船長は脣《くちびる》に絶えず冷笑を浮かべている。彼等は暫《しばら》く話した後、一しょに横みちへはいって行《ゆ》く。
35[#「35」は縦中横]
海を見おろした岬の上。彼等はそこに佇んだまま、何か熱心に話している。そのうちに船長はマントルの中から望遠鏡を一つ出し、「さん・せばすちあん」に「見ろ」と云う手真似《てまね》をする。彼はちょっとためらった後、望遠鏡に海の上を覗いて見る。彼等のまわりの草木《そうもく》は勿論、「さん・せばすちあん」の法服は海風の為にしっきりなしに揺らいでいる。が、船長のマントルは動いていない。
36[#「36」は縦中横]
望遠鏡に映った第一の光景。何枚も画を懸けた部屋の中に紅毛人の男女《なんにょ》が二人テエブルを中に話している。蝋燭《ろうそく》の光の落ちたテエブルの上には酒杯
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