る三月三日になってしまいました。そこで恵印は約束の手前、今更ほかに致し方もございませんから、渋々叔母の尼の伴《とも》をして、猿沢《さるさわ》の池が一目に見えるあの興福寺《こうふくじ》の南大門《なんだいもん》の石段の上へ参りました。丁度その日は空もほがらかに晴れ渡って、門の風鐸《ふうたく》を鳴らすほどの風さえ吹く気色《けしき》はございませんでしたが、それでも今日《きょう》と云う今日を待ち兼ねていた見物は、奈良の町は申すに及ばず、河内、和泉、摂津、播磨、山城、近江、丹波の国々からも押し寄せて参ったのでございましょう。石段の上に立って眺めますと、見渡す限り西も東も一面の人の海で、それがまた末はほのぼのと霞をかけた二条の大路《おおじ》のはてのはてまで、ありとあらゆる烏帽子《えぼし》の波をざわめかせて居るのでございます。と思うとそのところどころには、青糸毛《あおいとげ》だの、赤糸毛《あかいとげ》だの、あるいはまた栴檀庇《せんだんびさし》だのの数寄《すき》を凝らした牛車《ぎっしゃ》が、のっしりとあたりの人波を抑えて、屋形《やかた》に打った金銀の金具《かなぐ》を折からうららかな春の日ざしに、眩《まば
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