芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)宇治《うじ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)ある日一天|俄《にわか》に

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(例)※[#「てへん+丑」、第4水準2−12−93]
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        一

 宇治《うじ》の大納言隆国《だいなごんたかくに》「やれ、やれ、昼寝の夢が覚めて見れば、今日はまた一段と暑いようじゃ。あの松《まつ》ヶ枝《え》の藤《ふじ》の花さえ、ゆさりとさせるほどの風も吹かぬ。いつもは涼しゅう聞える泉の音も、どうやら油蝉の声にまぎれて、反《かえ》って暑苦しゅうなってしもうた。どれ、また童部《わらんべ》たちに煽《あお》いででも貰おうか。
「何、往来のものどもが集った? ではそちらへ参ると致そう。童部《わらんべ》たちもその大団扇《おおうちわ》を忘れずに後からかついで参れ。
「やあ、皆のもの、予が隆国《たかくに》じゃ。大肌ぬぎの無礼は赦《ゆる》してくれい。
「さて今日はその方どもにちと頼みたい事があって、わざと、この宇治の亭へ足を止めて貰うたのじゃ。と申すはこの頃ふとここへ参って、予も人並に双紙《そうし》を一つ綴ろうと思い立ったが、つらつら独り考えて見れば、生憎《あいにく》予はこれと云うて、筆にするほどの話も知らぬ。さりながらあだ面倒な趣向などを凝らすのも、予のような怠けものには、何より億劫千万《おっくうせんばん》じゃ。ついては今日から往来のその方どもに、今は昔の物語を一つずつ聞かせて貰うて、それを双紙に編みなそうと思う。さすれば内裡《だいり》の内外《うちそと》ばかりうろついて居《お》る予などには、思いもよらぬ逸事《いつじ》奇聞が、舟にも載せ車にも積むほど、四方から集って参るに相違あるまい。何と、皆のもの、迷惑ながらこの所望を叶《かな》えてくれる訳には行くまいか。
「何、叶えてくれる? それは重畳《ちょうじょう》、では早速一同の話を順々にこれで聞くと致そう。
「こりゃ童部《わらんべ》たち、一座へ風が通うように、その大団扇で煽《あお》いでくれい。それで少しは涼しくもなろうと申すものじゃ。鋳物師《いもじ》も陶器造《すえものつくり》も遠慮は入らぬ。二人ともずっとこの机のほとりへ参れ。鮓売《すしうり》の女も日が近くば、桶はその縁《えん》の隅へ置いたが好《よ》いぞ。わ法師も金鼓《ごんく》を外《はず》したらどうじゃ。そこな侍も山伏も簟《たかむしろ》を敷いたろうな。
「よいか、支度が整うたら、まず第一に年かさな陶器造《すえものつくり》の翁《おきな》から、何なりとも話してくれい。」

        二

 翁《おきな》「これは、これは、御叮嚀な御挨拶《ごあいさつ》で、下賤《げせん》な私《わたくし》どもの申し上げます話を、一々双紙へ書いてやろうと仰有《おっしゃ》います――そればかりでも、私の身にとりまして、どのくらい恐多いかわかりません。が、御辞退申しましては反《かえ》って御意《ぎょい》に逆《さから》う道理でございますから、御免を蒙って、一通り多曖《たわい》もない昔話を申し上げると致しましょう。どうか御退屈でもしばらくの間、御耳を御借し下さいまし。
「私どものまだ年若な時分、奈良に蔵人得業《くろうどとくごう》恵印《えいん》と申しまして、途方《とほう》もなく鼻の大きい法師《ほうし》が一人居りました。しかもその鼻の先が、まるで蜂にでも刺されたかと思うくらい、年が年中恐しくまっ赤なのでございます。そこで奈良の町のものが、これに諢名《あだな》をつけまして、鼻蔵《はなくら》――と申しますのは、元来大鼻の蔵人得業《くろうどとくごう》と呼ばれたのでございますが、それではちと長すぎると申しますので、やがて誰云うとなく鼻蔵人《はなくろうど》と申し囃《はや》しました。が、しばらく致しますと、それでもまだ長いと申しますので、さてこそ鼻蔵鼻蔵と、謡《うた》われるようになったのでございます。現に私も一両度、その頃奈良の興福寺《こうふくじ》の寺内で見かけた事がございますが、いかさま鼻蔵とでも譏《そし》られそうな、世にも見事な赤鼻の天狗鼻《てんぐばな》でございました。その鼻蔵の、鼻蔵人の、大鼻の蔵人得業の恵印法師《えいんほうし》が、ある夜の事、弟子もつれずにただ一人そっと猿沢《さるさわ》の池のほとりへ参りまして、あの采女柳《うねめやなぎ》の前の堤《つつみ》へ、『三月三日この池より竜昇らんずるなり』と筆太に書いた建札を、高々と一本打ちました。けれども恵印《えいん》は実の所、猿沢の池に竜などがほんとうに住んでいたかどうか、心得ていた訳ではございません。ましてその竜が三月三日に天上
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