《てんじょう》すると申す事は、全く口から出まかせの法螺《ほら》なのでございます。いや、どちらかと申しましたら、天上しないと申す方がまだ確かだったのでございましょう。ではどうしてそんな入らざる真似を致したかと申しますと、恵印は日頃から奈良の僧俗が何かにつけて自分の鼻を笑いものにするのが不平なので、今度こそこの鼻蔵人がうまく一番かついだ挙句《あげく》、さんざん笑い返してやろうと、こう云う魂胆《こんたん》で悪戯《いたずら》にとりかかったのでございます。御前《ごぜん》などが御聞きになりましたら、さぞ笑止《しょうし》な事と思召しましょうが、何分今は昔の御話で、その頃はかような悪戯を致しますものが、とかくどこにもあり勝ちでございました。
「さてあくる日、第一にこの建札を見つけましたのは、毎朝興福寺の如来様《にょらいさま》を拝みに参ります婆さんで、これが珠数《じゅず》をかけた手に竹杖をせっせとつき立てながら、まだ靄《もや》のかかっている池のほとりへ来かかりますと、昨日《きのう》までなかった建札が、采女柳の下に立って居ります。はて法会《ほうえ》の建札にしては妙な所に立っているなと不審には思ったのでございますが、何分文字が読めませんので、そのまま通りすぎようと致しました時、折よく向うから偏衫《へんさん》を着た法師が一人、通りかかったものでございますから、頼んで読んで貰いますと、何しろ『三月三日この池より竜昇らんずるなり』で、――誰でもこれには驚いたでございましょう。その婆さんも呆気《あっけ》にとられて、曲った腰をのしながら、『この池に竜などが居りましょうかいな。』と、とぼんと法師の顔を見上げますと、法師は反って落ち着き払って、『昔、唐《から》のある学者が眉《まゆ》の上に瘤《こぶ》が出来て、痒《かゆ》うてたまらなんだ事があるが、ある日一天|俄《にわか》に掻き曇って、雷雨車軸を流すがごとく降り注《そそ》いだと見てあれば、たちまちその瘤がふっつと裂けて、中から一匹の黒竜が雲を捲いて一文字に昇天したと云う話もござる。瘤の中にさえ竜が居たなら、ましてこれほどの池の底には、何十匹となく蛟竜《こうりゅう》毒蛇が蟠《わだかま》って居ようも知れぬ道理《ことわり》じゃ。』と、説法したそうでございます。何しろ出家に妄語《もうご》はないと日頃から思いこんだ婆さんの事でございますから、これを聞いて肝《きも》を消しますまい事か、『成程そう承りますれば、どうやらあの辺の水の色が怪しいように見えますわいな。』で、まだ三月三日にもなりませんのに、法師を独り後に残して、喘《あえ》ぎ喘ぎ念仏を申しながら、竹杖をつく間《ま》もまだるこしそうに急いで逃げてしまいました。後で人目がございませんでしたら、腹を抱えたかったのはこの法師で――これはそうでございましょう。実はあの発頭人《ほっとうにん》の得業《とくごう》恵印《えいん》、諢名《あだな》は鼻蔵《はなくら》が、もう昨夜《ゆうべ》建てた高札《こうさつ》にひっかかった鳥がありそうだくらいな、はなはだ怪しからん量見で、容子《ようす》を見ながら、池のほとりを、歩いて居ったのでございますから。が、婆さんの行った後には、もう早立ちの旅人と見えて、伴《とも》の下人《げにん》に荷を負わせた虫の垂衣《たれぎぬ》の女が一人、市女笠《いちめがさ》の下から建札を読んで居るのでございます。そこで恵印は大事をとって、一生懸命笑を噛み殺しながら、自分も建札の前に立って一応読むようなふりをすると、あの大鼻の赤鼻をさも不思議そうに鳴らして見せて、それからのそのそ興福寺《こうふくじ》の方へ引返して参りました。
「すると興福寺の南大門《なんだいもん》の前で、思いがけなく顔を合せましたのは、同じ坊に住んで居った恵門《えもん》と申す法師でございます。それが恵印《えいん》に出会いますと、ふだんから片意地なげじげじ眉をちょいとひそめて、『御坊《ごぼう》には珍しい早起きでござるな。これは天気が変るかも知れませぬぞ。』と申しますから、こちらは得たり賢しと鼻を一ぱいににやつきながら、『いかにも天気ぐらいは変るかも知れませぬて。聞けばあの猿沢の池から三月三日には、竜が天上するとか申すではござらぬか。』と、したり顔に答えました。これを聞いた恵門は疑わしそうに、じろりと恵印の顔を睨《ね》めましたが、すぐに喉を鳴らしながらせせら笑って、『御坊は善い夢を見られたな。いやさ、竜の天上するなどと申す夢は吉兆じゃとか聞いた事がござる。』と、鉢《はち》の開《ひら》いた頭を聳《そびや》かせたまま、行きすぎようと致しましたが、恵印はまるで独り言のように、『はてさて、縁無き衆生《しゅじょう》は度《ど》し難しじゃ。』と、呟《つぶや》いた声でも聞えたのでございましょう。麻緒《あさお》の足駄《あしだ》の歯を※[#「て
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