。そこでこちらも柱の根がたに坐ってばかりは居られませんので、嫌々腰を擡《もた》げて見ますと、ここにも揉烏帽子《もみえぼし》や侍烏帽子《さむらいえぼし》が人山《ひとやま》を築いて居りましたが、その中に交ってあの恵門法師《えもんほうし》も、相不変《あいかわらず》鉢の開いた頭を一きわ高く聳やかせながら、鵜《う》の目もふらず池の方を眺めて居るではございませんか。恵印は急に今までの情けない気もちも忘れてしまって、ただこの男さえかついでやったと云う可笑《おか》しさに独り擽《くすぐ》られながら、『御坊《ごぼう》』と一つ声をかけて、それから『御坊も竜の天上を御覧かな。』とからかうように申しましたが、恵門は横柄《おうへい》にふりかえると、思いのほか真面目な顔で、『さようでござる。御同様|大分《だいぶ》待ち遠い思いをしますな。』と、例のげじげじ眉も動かさずに答えるのでございます。これはちと薬が利きすぎた――と思うと、浮いた声も自然に出なくなってしまいましたから、恵印はまた元の通り世にも心細そうな顔をして、ぼんやり人の海の向うにある猿沢《さるさわ》の池を見下しました。が、池はもう温《ぬる》んだらしい底光りのする水の面《おもて》に、堤をめぐった桜や柳を鮮にじっと映したまま、いつになっても竜などを天上させる気色《けしき》もございません。殊にそのまわりの何里四方が、隙き間もなく見物の人数《にんず》で埋《うず》まってでもいるせいか、今日は池の広さが日頃より一層狭く見えるようで、第一ここに竜が居ると云うそれがそもそも途方《とほう》もない嘘のような気が致すのでございます。
「が、一時一時《いっときいっとき》と時の移って行くのも知らないように、見物は皆|片唾《かたず》を飲んで、気長に竜の天上を待ちかまえて居るのでございましょう。門の下の人の海は益《ますます》広がって行くばかりで、しばらくする内には牛車《ぎっしゃ》の数《かず》も、所によっては車の軸が互に押し合いへし合うほど、多くなって参りました。それを見た恵印の情けなさは、大概前からの行きがかりでも、御推察が参るでございましょう。が、ここに妙な事が起ったと申しますのは、どう云うものか、恵印の心にもほんとうに竜が昇りそうな――それも始はどちらかと申すと、昇らない事もなさそうな気がし出した事でございます。恵印は元よりあの高札《こうさつ》を打った当人でございますから、そんな莫迦《ばか》げた気のすることはありそうもないものでございますが、目の下で寄せつ返しつしている烏帽子《えぼし》の波を見て居りますと、どうもそんな大変が起りそうな気が致してなりません。これは見物の人数の心もちがいつとなく鼻蔵《はなくら》にも乗り移ったのでございましょうか。それともあの建札を建てたばかりに、こんな騒ぎが始まったと思うと、何となく気が咎《とが》めるので、知らず知らずほんとうに竜が昇ってくれれば好《い》いと念じ出したのでございましょうか。その辺の事情はともかくも、あの高札の文句を書いたものは自分だと重々《じゅうじゅう》承知しながら、それでも恵印は次第次第に情けない気もちが薄くなって、自分も叔母の尼と同じように飽かず池の面《おもて》を眺め始めました。また成程《なるほど》そう云う気が起りでも致しませんでしたら、昇る気づかいのない竜を待って、いかに不承不承《ふしょうぶしょう》とは申すものの、南大門《なんだいもん》の下に小一日《こいちにち》も立って居る訳には参りますまい。
「けれども猿沢の池は前の通り、漣《さざなみ》も立てずに春の日ざしを照り返して居るばかりでございます。空もやはりほがらかに晴れ渡って、拳《こぶし》ほどの雲の影さえ漂って居る容子《ようす》はございません。が、見物は相不変《あいかわらず》、日傘の陰にも、平張《ひらばり》の下にも、あるいはまた桟敷《さじき》の欄干の後《うしろ》にも、簇々《ぞくぞく》と重なり重なって、朝から午《ひる》へ、午から夕《ゆうべ》へ日影が移るのも忘れたように、竜王が姿を現すのを今か今かと待って居りました。
「すると恵印《えいん》がそこへ来てから、やがて半日もすぎた時分、まるで線香の煙のような一すじの雲が中空《なかぞら》にたなびいたと思いますと、見る間にそれが大きくなって、今までのどかに晴れていた空が、俄《にわか》にうす暗く変りました。その途端《とたん》に一陣の風がさっと、猿沢の池に落ちて、鏡のように見えた水の面に無数の波を描《えが》きましたが、さすがに覚悟はしていながら慌てまどった見物が、あれよあれよと申す間もなく、天を傾けてまっ白にどっと雨が降り出したではございませんか。のみならず神鳴《かみなり》も急に凄じく鳴りはためいて、絶えず稲妻《いなずま》が梭《おさ》のように飛びちがうのでございます。それが一度鍵の手に群る雲を
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