《はじ》めて明白にこの老婆の生死が、全然、自分の意志《いし》に支配されてゐると云ふ事を意識《いしき》した。さうして、この意識は、今《いま》まではげしく燃えてゐた憎惡の心を何時《いつ》の間にか冷《さ》ましてしまつた。後《あと》に殘つたのは、唯、或《ある》仕事《しごと》をして、それが圓滿《ゑんまん》に成就した時の、安らかな得意《とくい》と滿足とがあるばかりである。そこで、下人は、老婆《らうば》を見下しながら、少し聲を柔《やはら》げてかう云つた。
「己は檢非違使《けびゐし》の廳の役人などではない。今し方この門《もん》の下を通《とほ》りかゝつた旅の者だ。だからお前に繩《なわ》をかけて、どうしようと云ふやうな事はない。唯《たゞ》、今時分、この門の上で、何《なに》をして居たのだか、それを己に話《はなし》しさへすればいいのだ。」
 すると、老婆は、見開《みひら》いてゐた眼を、一|層大《そうおほ》きくして、ぢつとその下人の顏《かほ》を見守つた。※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]の赤くなつた、肉食鳥のやうな、鋭《するど》い眼で見たのである。それから、皺《しは》で、殆、鼻と一つになつた唇を、何か物
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