野呂松人形
芥川龍之介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)野呂松人形《のろまにんぎょう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)江戸|和泉太夫《いずみだゆう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)そうありたい[#「ありたい」に傍点]ばかりでなく、
〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)日本の 〔e'tiquette〕 も、
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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野呂松人形《のろまにんぎょう》を使うから、見に来ないかと云う招待が突然来た。招待してくれたのは、知らない人である。が、文面で、その人が、僕の友人の知人だと云う事がわかった。「K氏も御出《おいで》の事と存じ候えば」とか何とか、書いてある。Kが、僕の友人である事は云うまでもない。――僕は、ともかくも、招待に応ずる事にした。
野呂松人形と云うものが、どんなものかと云う事は、その日になって、Kの説明を聞くまでは、僕もよく知らなかった。その後、世事談《せじだん》を見ると、のろまは「江戸|和泉太夫《いずみだゆう》、芝居に野呂松勘兵衛《のろまつかんべえ》と云うもの、頭ひらたく色青黒きいやしげなる人形を使う。これをのろま人形と云う。野呂松の略語なり」とある。昔は蔵前《くらまえ》の札差《ふださし》とか諸大名の御金御用とかあるいはまたは長袖とかが、楽しみに使ったものだそうだが、今では、これを使う人も数えるほどしかないらしい。
当日、僕は車で、その催しがある日暮里《にっぽり》のある人の別荘へ行った。二月の末のある曇った日の夕方である。日の暮には、まだ間《ま》があるので、光とも影ともつかない明るさが、往来に漂《ただよ》っている。木の芽を誘うには早すぎるが、空気は、湿気を含んで、どことなく暖い。二三ヶ所で問うて、漸《ようや》く、見つけた家は、人通りの少ない横町にあった。が、想像したほど、閑静《かんせい》な住居《すまい》でもないらしい。昔通りのくぐり門をはいって、幅の狭い御影石《みかげいし》の石だたみを、玄関の前へ来ると、ここには、式台の柱に、銅鑼《どら》が一つ下っている。そばに、手ごろな朱塗《しゅぬり》の棒まで添えてあるから、これで叩くのかなと思っていると、まだ、それを手にしない中《うち》に、玄関の障子《しょうじ》のかげにいた人が、「どうぞこちらへ」と声をかけた。
受附のような所で、罫紙《けいし》の帳面に名前を書いて、奥へ通ると、玄関の次の八畳と六畳と、二間一しょにした、うす暗い座敷には、もう大分、客の数が見えていた。僕は、人中《ひとなか》へ出る時は、大抵、洋服を着てゆく。袴《はかま》だと、拘泥《こうでい》しなければならない。繁雑な日本の 〔e'tiquette〕 も、ズボンだと、しばしば、大目に見られやすい。僕のような、礼節になれない人間には、至極便利である。その日も、こう云う訳で、僕は、大学の制服を着て行った。が、ここへ来ている連中の中には、一人も洋服を着ているものがない。驚いた事には、僕の知っている英吉利人《イギリスじん》さえ、紋附《もんつき》にセルの袴で、扇《おうぎ》を前に控えている。Kの如き町家の子弟が結城紬《ゆうきつむぎ》の二枚襲《にまいがさね》か何かで、納まっていたのは云うまでもない。僕は、この二人の友人に挨拶をして、座につく時に、いささか、〔e'tranger〕 の感があった。
「これだけ、お客があっては、――さんも大よろこびだろう。」Kが僕に云った。――さんと云うのは、僕に招待状をくれた人の名である。
「あの人も、やはり人形を使うのかい。」
「うん、一番か二番は、習っているそうだ。」
「今日も使うかしら。」
「いや、使わないだろう。今日は、これでもこの道のお歴々《れきれき》が使うのだから。」
Kは、それから、いろいろ、野呂松人形の話をした。何でも、番組の数は、皆で七十何番とかあって、それに使う人形が二十幾つとかあると云うような事である。自分は、時々、六畳の座敷の正面に出来ている舞台の方を眺めながら、ぼんやりKの説明を聞いていた。
舞台と云うのは、高さ三尺ばかり、幅二間ばかりの金箔《きんぱく》を押した歩衝《ついたて》である。Kの説によると、これを「手摺《てす》り」と称するので、いつでも取壊せるように出来ていると云う。その左右へは、新しい三色緞子《さんしょくどんす》の几帳《きちょう》が下っている。後《うしろ》は、金屏風《きんびょうぶ》をたてまわしたものらしい。うす暗い中に、その歩衝《ついたて》と屏風との金が一重《ひとえ》、燻《いぶ》しをかけたように、重々しく夕闇を破っている。――
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