lは、この簡素な舞台を見て非常にいい心もちがした。
「人形には、男と女とあってね、男には、青頭とか、文字兵衛《もじべえ》とか、十内《じゅうない》とか、老僧とか云うのがある。」Kは弁じて倦まない。
「女にもいろいろありますか。」と英吉利人《イギリスじん》が云った。
「女には、朝日とか、照日《てるひ》とかね、それからおきね、悪婆《あくば》なんぞと云うのもあるそうだ。もっとも中で有名なのは、青頭でね。これは、元祖から、今の宗家へ伝来したのだと云うが……」
生憎《あいにく》、その内に、僕は小用《こよう》に行きたくなった。
――厠《かわや》から帰って見ると、もう電燈がついている。そうして、いつの間にか「手摺り」の後《うしろ》には、黒い紗《しゃ》の覆面をした人が一人、人形を持って立っている。
いよいよ、狂言が始まったのであろう。僕は、会釈《えしゃく》をしながら、ほかの客の間を通って、前に坐っていた所へ来て坐った。Kと日本服を来た英吉利人との間である。
舞台の人形は、藍色の素袍《すおう》に、立烏帽子《たてえぼし》をかけた大名である。「それがし、いまだ、誇る宝がござらぬによって、世に稀《まれ》なる宝を都へ求めにやろうと存ずる。」人形を使っている人が、こんな事を云った。語と云い、口調と云い、間狂言《あいきょうげん》を見るのと、大した変りはない。
やがて、大名が、「まず、与六《よろく》を呼び出して申しつけよう。やいやい与六あるか。」とか何とか云うと、「へえ」と答えながらもう一人、黒い紗で顔を隠した人が、太郎冠者《たろうかじゃ》のような人形を持って、左の三色緞子の中から、出て来た。これは、茶色の半上下《はんがみしも》に、無腰《むごし》と云う着附けである。
すると、大名の人形が、左手《ゆんで》を小さ刀《がたな》の柄《つか》にかけながら、右手《めて》の中啓《ちゅうけい》で、与六をさしまねいで、こう云う事を云いつける。――「天下治まり、目出度い御代なれば、かなたこなたにて宝合せをせらるるところ、なんじの知る通り、それがし方には、いまだ誇るべき宝がないによって、汝都へ上り、世に稀なるところの宝が有らば求めて参れ。」与六「へえ」大名「急げ」「へえ」「ええ」「へえ」「ええ」「へえさてさて殿様には……」――それから与六の長い Soliloque が始まった。
人形の出来は、はなはだ、簡単である。第一、着附の下に、足と云うものがない。口が開《あ》いたり、目が動いたりする後世の人形に比べれば、格段な相違である。手の指を動かす事はあるが、それも滅多《めった》にやらない。するのは、ただ身ぶりである。体を前後にまげたり、手を左右に動かしたりする――それよりほかには、何もしない。はなはだ、間ののびた、同時に、どこか鷹揚《おうよう》な、品のいいものである。僕は、人形に対して、再び、〔e'tranger〕 の感を深くした。
アナトオル・フランスの書いたものに、こう云う一節がある、――時代と場所との制限を離れた美は、どこにもない。自分が、ある芸術の作品を悦ぶのは、その作品の生活に対する関係を、自分が発見した時に限るのである。Hissarlik の素焼の陶器は自分をして、よりイリアッドを愛せしめる。十三世紀におけるフィレンツェの生活を知らなかったとしたら、自分は神曲を、今日《こんにち》の如く鑑賞する事は出来なかったのに相違ない。自分は云う、あらゆる芸術の作品は、その製作の場所と時代とを知って、始めて、正当に愛し、かつ、理解し得られるのである。……
僕は、金色《こんじき》の背景の前に、悠長な動作を繰返している、藍の素袍《すおう》と茶の半上下《はんがみしも》とを見て、図《はか》らず、この一節を思い出した。僕たちの書いている小説も、いつかこの野呂松人形のようになる時が来はしないだろうか。僕たちは、時代と場所との制限をうけない美があると信じたがっている。僕たちのためにも、僕たちの尊敬する芸術家のためにも、そう信じて疑いたくないと思っている。しかし、それが、果して、そうありたい[#「ありたい」に傍点]ばかりでなく、そうある[#「ある」に傍点]事であろうか。……
野呂松人形は、そうある[#「ある」に傍点]事を否定する如く、木彫の白い顔を、金の歩衝《ついたて》の上で、動かしているのである。
狂言は、それから、すっぱ[#「すっぱ」に傍点]が出て、与六を欺《だま》し、与六が帰って、大名の不興《ふきょう》を蒙《こうむ》る所で完《おわ》った。鳴物は、三味線のない芝居の囃《はや》しと能の囃しとを、一つにしたようなものである。
僕は、次の狂言を待つ間を、Kとも話さずに、ぼんやり、独り「朝日」をのんですごした。
[#地から1字上げ](大正五年七月十八日)
底本:「芥川龍之介全集1」
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