るが為のみにあらざりき。始め、頼朝の関八州をうちて一丸と為さむとするや、常陸の住人信太三郎先生義広、独り、膝を屈して彼の足下に九拝するを潔しとせず、走つて義仲の軍に投じぬ。「為人不忍」の彼は、義広の枯魚の如くなる落魄を見るに堪へず、喜ンで彼をして其旗下に止らしめたり。是実に頼朝の憤れる所なりき。しかも義仲、已に覇を北陸に称す、汗馬刀槍、其掌中にあり、鉄騎甲兵、其令下にあり。彼にして一たび野心を挾まむ乎、帯甲百万、※[#「瞽」の「目」に代えて「卑」、第4水準2−94−67]鼓を撃つて鎌倉に向はむの日遠きにあらず、是実に頼朝の畏れたる所なりき。
加ふるに義仲と快からざる、武田信光が、好機逸すべからずとして、彼を頼朝に讒したるに於てをや。三分の恐怖と七分の憤怨とを抱ける頼朝は、是に於て、怫然として書を彼に飛ばしたり。而して自ら十万の逞兵を率ゐて碓日を越え、馬首東を指して彼と雌雄を決せむと試みたり。今やかくの如くにして、革命軍の双星は、戟を横へて茫漠たる信の山川に其勇を競はむとす、天下の大勢は彼が一言に関れり。彼は直に諸将を集めて問へり。「戦はむ乎否乎」と、諸将躍然として答へて曰「願くは戦はむ」と、彼、黙然たり。諸将再切歯して曰「願くは、臣等の碧蹄、八州の草を蹂躙せむ」と、然れども、彼は猶答へざりき。彼は遂に情の人也。彼は、戈を逆にして一門の血を流さむには、余りに人がよすぎたり。彼は此無法なる云ひがかりに対しても、猶、頼朝を骨肉として遇したり。而して彼は、遂に義高を送りて、頼朝の怒を和めたりき。然り、彼は遂に情の人也。彼は、行家義広等の窮鳥を猟夫の手に委すに忍びざりき。彼は豆を煮るに、豆莢を燃やすを欲せざりき。彼は児女の情を有したり。彼は行路の人に忍びざる情を有したり。あゝ「如此殺身猶洒落」なるもの、豈、独り西楚の覇王に止らむや。請ふ吾人をして恣に推察せしめよ。若し彼にして決然として、頼朝の挑戦に応ぜしならば、木曾の眠獅と蛭ヶ小島の臥竜との敢戦は、更に幾倍の偉観をきはめしなるべく、天下は漢末の如く三分せられしなるべく、而して中原の鹿誰が手に落つべき乎は未俄に断ずべからざりしなるべし。かくして、春風は再、両雄の間に吹けり。頼朝は、旌旗をめぐらして鎌倉に帰れり。而して彼は遂に、久しく其予期したるが如く、豼貅五万、旗鼓堂々として南に向へり。
老いても獅子は百獣の王也。革命軍の鋭鋒
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