越後の住人、城四郎長茂が率ゐる六万の平軍と、横田川を隔てて相対しぬ。俊才、嚢中の錐の如き彼は、直に部将井上九郎光盛をして赤旗を立てて前ましめ、彼自らは河を済り、戦鼓をうつて戦を挑み、平軍の彼が陣を衝かむとするに乗じて光盛等をして、赤旗を倒して白旗を飜し、急に敵軍を夾撃せしめて大に勝ち、遂に長茂をして越後に走らしめたり。是実に、淮陰侯が、井※[#「こざとへん+輕のつくり」、第3水準1−93−59]に成安君を破れるの妙策、錐は遂に悉く穎脱し了れる也。越えて八月、宗盛、革命軍の軍鋒、竹を破るが如きを聞き、倉皇として北陸道追討の宣旨を請ひ、中宮亮平通盛、但馬守平経正等を主将とせる征北軍を組織し、彼が奔流の如き南下を妨げしめたり。然れども、九月通盛等の軍、彼と戦つて大に敗れ、退いて敦賀の城に拒ぎしも遂に支ふる能はず、首尾断絶して軍悉く潰走し、辛くも敗滅の恥を免るゝを得たり。是に於て、革命軍の武威、遠く上野、信濃、越後、越中、能登、加賀、越前を風靡し、七州の豪傑、嘯集して其旗下に投じ、剣槊霜の如くにして介馬数万、意気堂々として已に平氏政府を呑めり。薄倖の孤児、木曾の野人、旭将軍義仲の得意や、知るべき也。北陸既に定まり、兵甲既に足る。彼は速に、遠馭長駕、江河の堤を決するが如き勢を以て京師に侵入せむと欲したり。而して大牙未南に向はざるに先だち、恰も関八州を席の如く巻き将に東海道を西進せむとしたる源兵衛佐頼朝によつて送られたる一封の書簡は、彼の征南をして止めしめたり。書に曰、
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平家朝威を背き奉り、仏法を亡すによりて、源家同姓のともがらに仰せて、速に追討すべき由、院宣を下され了ンぬ。尤も夜を以て日についで、逆臣を討ちて、宸襟をやすめ奉るべきのところ、十郎蔵人私のむほんを起し、頼朝追討の企ありと聞ゆ。然るをかの人に同心して扶持し置かるゝの条、且は一門不合、且は平家のあざけりなり。但、御所存をわきまへず、もし異なること仔細なくば、速に蔵人を出さるゝか、それさもなくば、清水殿(義仲の子清水冠者義高)をこれへ渡し玉へ、父子の義をなし奉るべし。両条の内一も、承認なくンば、兵をさしつかはして、誅し奉るべし。
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是、実に彼にとりては不慮の云ひがかりなりし也。蓋し、頼朝の彼に平ならざる所以は、啻に、頼朝と和せずして去りたる十郎蔵人行家が、彼の陣中に投じた
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