からその名詞を見ると、すぐ後に――このすぐ後にあるのは、何だか知っているかね。え。お前はどうだい。」
「関係――関係名詞。」
給仕の一人が吃《ども》りながら、こう答えた。
「何、関係名詞? 関係名詞と云うものはない。関係――ええと――関係代名詞? そうそう関係代名詞だね。代名詞だから、そら、ナポレオンと云う名詞の代りになる。ね。代名詞とは名に代る詞《ことば》と書くだろう。」
話の具合では、毛利先生はこのカッフェの給仕たちに英語を教えてでもいるらしい。そこで自分は椅子《いす》をずらせて、違った位置からまた鏡を覗《のぞ》きこんだ。すると果してその卓《テエブル》の上には、読本らしいものが一冊開いてある。毛利先生はその頁を、頻《しきり》に指でつき立てながら、いつまでも説明に厭《あ》きる容子《ようす》がない。この点もまた先生は、依然として昔の通りであった。ただ、まわりに立っている給仕たちは、あの時の生徒と反対に、皆熱心な眼を輝かせて、目白押《めじろお》しに肩を合せながら、慌《あわただ》しい先生の説明におとなしく耳を傾けている。
自分は鏡の中のこの光景を、しばらく眺めている間に、毛利先生に対する温情が意識の表面へ浮んで来た。一そ自分もあすこへ行って、先生と久闊《きゅうかつ》を叙し合おうか。が、多分先生は、たった一学期の短い間、教室だけで顔を合せた自分なぞを覚えていまい。よしまた覚えているとしても――自分は卒然《そつぜん》として、当時自分たちが先生に浴びせかけた、悪意のある笑い声を思い出すと、結局|名乗《なのり》なぞはあげない方が、遥《はるか》に先生を尊敬する所以《ゆえん》だと思い直した。そこで珈琲《コオヒイ》が尽きたのを機会《しお》にして、短くなった葉巻を捨てながら、そっと卓《テエブル》から立上ると、それが静にした心算《つもり》でも、やはり先生の注意を擾《みだ》したのであろう。自分が椅子を離れると同時に、先生はあの血色の悪い丸顔を、あのうすよごれた折襟を、あの紫の襟飾《ネクタイ》を、一度にこちらへふり向けた。家畜《かちく》のような先生の眼と自分の眼とが、鏡の中で刹那《せつな》の間《あいだ》出会ったのは正にこの時である。が、先生の眼の中には、さっき自分が予想した通り、果して故人に遇ったと云う気色《けしき》らしいものも浮んでいない。ただ、そこに閃いていたものは、例の如く何ものかを、常に哀願しているような、傷《いた》ましい目《ま》なざしだけであった。
自分は眼を伏せたまま、給仕の手から伝票を受けとると、黙ってカッフェの入口にある帳場《ちょうば》の前へ勘定に行った。帳場には自分も顔馴染《かおなじ》みの、髪を綺麗に分けた給仕頭《きゅうじがしら》が、退屈そうに控えている。
「あすこに英語を教えている人がいるだろう。あれはこのカッフェで頼んで教えて貰うのかね。」
自分は金を払いながら、こう尋ねると、給仕頭は戸口の往来を眺めたまま、つまらなそうな顔をして、こんな答を聞かせてくれた。
「何、頼んだ訳《わけ》じゃありません。ただ、毎晩やって来ちゃ、ああやって、教えているんです。何でももう老朽《ろうきゅう》の英語の先生だそうで、どこでも傭《やと》ってくれないんだって云いますから、大方暇つぶしに来るんでしょう。珈琲一杯で一晩中、坐りこまれるんですから、こっちじゃあんまり難有《ありがた》くもありません。」
これを聞くと共に自分の想像には、咄嗟《とっさ》に我毛利先生の知られざる何物かを哀願している、あの眼つきが浮んで来た。ああ、毛利先生。今こそ自分は先生を――先生の健気《けなげ》な人格を始めて髣髴《ほうふつ》し得たような心もちがする。もし生れながらの教育家と云うものがあるとしたら、先生は実にそれであろう。先生にとって英語を教えると云う事は、空気を呼吸すると云う事と共に、寸刻といえども止《や》める事は出来ない。もし強《し》いて止めさせれば、丁度水分を失った植物か何かのように、先生の旺盛《おうせい》な活力も即座に萎微《いび》してしまうのであろう。だから先生は夜毎に英語を教えると云うその興味に促されて、わざわざ独りこのカッフェへ一杯の珈琲を啜《すす》りに来る。勿論それはあの給仕頭《きゅうじがしら》などに、暇つぶしを以て目《もく》さるべき悠長な性質のものではない。まして昔、自分たちが、先生の誠意を疑って、生活のためと嘲《あざけ》ったのも、今となっては心から赤面のほかはない誤謬《ごびゅう》であった。思えばこの暇つぶしと云い生活のためと云う、世間の俗悪な解釈のために、我毛利先生はどんなにか苦しんだ事であろう。元よりそう云う苦しみの中にも、先生は絶えず悠然たる態度を示しながら、あの紫の襟飾《ネクタイ》とあの山高帽《やまたかぼう》とに身を固めて、ドン・キホオテよりも勇ま
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