したが、やがて半ば恥かしそうに、こう云う話をし出したそうだ。――夫がマルセイユに上陸中、何人かの同僚と一しょに、あるカッフェへ行っていると、突然日本人の赤帽が一人、卓子《テーブル》の側へ歩み寄って、馴々《なれなれ》しく近状を尋ねかけた。勿論マルセイユの往来に、日本人の赤帽なぞが、徘徊《はいかい》しているべき理窟《りくつ》はない。が、夫はどう云う訳か格別不思議とも思わずに、右の腕を負傷した事や帰期《きき》の近い事なぞを話してやった。その内に酔《よ》っている同僚の一人が、コニャックの杯《さかずき》をひっくり返した。それに驚いてあたりを見ると、いつのまにか日本人の赤帽は、カッフェから姿を隠していた。一体あいつは何だったろう。――そう今になって考えると、眼は確かに明いていたにしても、夢だか実際だか差別がつかない。のみならずまた同僚たちも、全然赤帽の来た事なぞには、気がつかないような顔をしている。そこでとうとうその事については、誰にも打ち明けて話さずにしまった。所が日本へ帰って来ると、現に千枝子は、二度までも怪しい赤帽に遇《あ》ったと云う。ではマルセイユで見かけたのは、その赤帽かと思いもしたが、
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