余り怪談じみているし、一つには名誉の遠征中も、細君の事ばかり思っているかと、嘲《あざけ》られそうな気がしたから、今日《きょう》まではやはり黙っていた。が、今顔を出した赤帽を見たら、マルセイユのカッフェにはいって来た男と、眉毛《まゆげ》一つ違っていない。――夫はそう話し終ってから、しばらくは口を噤《つぐ》んでいたが、やがて不安そうに声を低くすると、「しかし妙じゃないか? 眉毛一つ違わないと云うものの、おれはどうしてもその赤帽の顔が、はっきり思い出せないんだ。ただ、窓越しに顔を見た瞬間、あいつだなと……」

 村上《むらかみ》がここまで話して来た時、新にカッフェへはいって来た、友人らしい三四人が、私《わたし》たちの卓子《テーブル》へ近づきながら、口々に彼へ挨拶《あいさつ》した。私は立ち上った。
「では僕は失敬しよう。いずれ朝鮮へ帰る前には、もう一度君を訪ねるから。」
 私はカッフェの外へ出ると、思わず長い息を吐《つ》いた。それはちょうど三年以前、千枝子《ちえこ》が二度までも私と、中央停車場に落ち合うべき密会《みっかい》の約を破った上、永久に貞淑な妻でありたいと云う、簡単な手紙をよこした訳が
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