妙な話
芥川龍之介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)ある冬の夜《よ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)この間|千枝子《ちえこ》から
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](大正九年十二月)
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ある冬の夜《よ》、私《わたし》は旧友の村上《むらかみ》と一しょに、銀座《ぎんざ》通りを歩いていた。
「この間|千枝子《ちえこ》から手紙が来たっけ。君にもよろしくと云う事だった。」
村上はふと思い出したように、今は佐世保《させほ》に住んでいる妹の消息を話題にした。
「千枝子さんも健在《たっしゃ》だろうね。」
「ああ、この頃はずっと達者のようだ。あいつも東京にいる時分は、随分《ずいぶん》神経衰弱もひどかったのだが、――あの時分は君も知っているね。」
「知っている。が、神経衰弱だったかどうか、――」
「知らなかったかね。あの時分の千枝子と来た日には、まるで気違いも同様さ。泣くかと思うと笑っている。笑っているかと思うと、――妙な話をし出すのだ。」
「妙な話?」
村上は返事をする前に、ある珈琲店《カッフェ》の硝子扉《ガラスど》を押した。そうして往来の見える卓子《テーブル》に私と向い合って腰を下した。
「妙な話さ。君にはまだ話さなかったかしら。これはあいつが佐世保へ行く前に、僕に話して聞かせたのだが。――」
君も知っている通り、千枝子の夫は欧洲《おうしゅう》戦役中、地中海《ちちゅうかい》方面へ派遣された「A――」の乗組将校だった。あいつはその留守《るす》の間《あいだ》、僕の所へ来ていたのだが、いよいよ戦争も片がつくと云う頃から、急に神経衰弱がひどくなり出したのだ。その主な原因は、今まで一週間に一度ずつはきっと来ていた夫の手紙が、ぱったり来なくなったせいかも知れない。何しろ千枝子は結婚後まだ半年《はんとし》と経たない内に、夫と別れてしまったのだから、その手紙を楽しみにしていた事は、遠慮のない僕さえひやかすのは、残酷《ざんこく》な気がするくらいだった。
ちょうどその時分の事だった。ある日、――そうそう、あの日は紀元節《きげんせつ》だっけ。何でも朝から雨の降り出した、寒さの厳しい午後だったが、千枝子は久しぶりに鎌倉《かまくら》へ、遊びに行って来ると云い出した。鎌倉にはある実業家の細君
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