になった、あいつの学校友だちが住んでいる。――そこへ遊びに行くと云うのだが、何もこの雨の降るのに、わざわざ鎌倉くんだりまで遊びに行く必要もないと思ったから、僕は勿論僕の妻《さい》も、再三|明日《あした》にした方が好くはないかと云って見た。しかし千枝子は剛情に、どうしても今日行きたいと云う。そうしてしまいには腹を立てながら、さっさと支度して出て行ってしまった。
事によると今日は泊《とま》って来るから、帰りは明日《あす》の朝になるかも知れない。――そう云ってあいつは出て行ったのだが、しばらくすると、どうしたのだかぐっしょり雨に濡れたまま、まっ蒼な顔をして帰って来た。聞けば中央停車場から濠端《ほりばた》の電車の停留場まで、傘《かさ》もささずに歩いたのだそうだ。では何故《なぜ》またそんな事をしたのだと云うと、――それが妙な話なのだ。
千枝子が中央停車場へはいると、――いや、その前にまだこう云う事があった。あいつが電車へ乗った所が、生憎《あいにく》客席が皆|塞《ふさ》がっている。そこで吊《つ》り革《かわ》にぶら下っていると、すぐ眼の前の硝子《ガラス》窓に、ぼんやり海の景色が映るのだそうだ。電車はその時|神保町《じんぼうちょう》の通りを走っていたのだから、無論《むろん》海の景色なぞが映る道理はない。が、外の往来の透《す》いて見える上に、浪の動くのが浮き上っている。殊に窓へ雨がしぶくと、水平線さえかすかに煙って見える。――と云う所から察すると、千枝子はもうその時に、神経がどうかしていたのだろう。
それから、中央停車場へはいると、入口にいた赤帽《あかぼう》の一人が、突然千枝子に挨拶《あいさつ》をした。そうして「旦那《だんな》様はお変りもございませんか。」と云った。これも妙だったには違いない。が、さらに妙だった事は、千枝子がそう云う赤帽の問を、別に妙とも思わなかった事だ。「難有《ありがと》う。ただこの頃はどうなすったのだか、さっぱり御便りが来ないのでね。」――そう千枝子は赤帽に、返事さえもしたと云うのだ。すると赤帽はもう一度「では私《わたくし》が旦那様にお目にかかって参りましょう。」と云った。御目にかかって来ると云っても、夫は遠い地中海にいる。――と思った時、始めて千枝子は、この見慣れない赤帽の言葉が、気違いじみているのに気がついたのだそうだ。が、問い返そうと思う内に、赤帽はち
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