ょいと会釈《えしゃく》をすると、こそこそ人ごみの中に隠れてしまった。それきり千枝子はいくら探して見ても、二度とその赤帽の姿が見当らない。――いや、見当らないと云うよりも、今まで向い合っていた赤帽の顔が、不思議なほど思い出せないのだそうだ。だから、あの赤帽の姿が見当らないと同時に、どの赤帽も皆その男に見える。そうして千枝子にはわからなくても、あの怪しい赤帽が、絶えずこちらの身のまわりを監視《かんし》していそうな心もちがする。こうなるともう鎌倉どころか、そこにいるのさえ何だか気味が悪い。千枝子はとうとう傘もささずに、大降りの雨を浴びながら、夢のように停車場を逃げ出して来た。――勿論《もちろん》こう云う千枝子の話は、あいつの神経のせいに違いないが、その時|風邪《かぜ》を引いたのだろう。翌日からかれこれ三日ばかりは、ずっと高い熱が続いて、「あなた、堪忍《かんにん》して下さい。」だの、「何故《なぜ》帰っていらっしゃらないんです。」だの、何か夫と話しているらしい譫言《うわごと》ばかり云っていた。が、鎌倉行きの祟《たた》りはそればかりではない。風邪《かぜ》がすっかり癒った後《あと》でも、赤帽と云う言葉を聞くと、千枝子はその日中《ひじゅう》ふさぎこんで、口さえ碌《ろく》に利《き》かなかったものだ。そう云えば一度なぞは、どこかの回漕店《かいそうてん》の看板に、赤帽の画《え》があるのを見たものだから、あいつはまた出先まで行かない内に、帰って来たと云う滑稽《こっけい》もあった。
しかしかれこれ一月《ひとつき》ばかりすると、あいつの赤帽を怖がるのも、大分《だいぶ》下火《したび》になって来た。「姉さん。何とか云う鏡花《きょうか》の小説に、猫のような顔をした赤帽が出るのがあったでしょう。私《わたし》が妙な目に遇《あ》ったのは、あれを読んでいたせいかも知れないわね。」――千枝子はその頃僕の妻《さい》に、そんな事も笑って云ったそうだ。ところが三月の幾日だかには、もう一度赤帽に脅《おびや》かされた。それ以来夫が帰って来るまで、千枝子はどんな用があっても、決して停車場へは行った事がない。君が朝鮮へ立つ時にも、あいつが見送りに来なかったのは、やはり赤帽が怖《こわ》かったのだそうだ。
その三月の幾日だかには、夫の同僚が亜米利加《アメリカ》から、二年ぶりに帰って来る。――千枝子はそれを出迎えるために、朝
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