の山腹が、間近く窓側に迫つて来たのでも、すぐに合点《がてん》の行く事であつた。にも関らずこの小娘は、わざわざしめてある窓の戸を下さうとする、――その理由が私には呑みこめなかつた。いや、それが私には、単にこの小娘の気まぐれだとしか考へられなかつた。だから私は腹の底に依然として険しい感情を蓄へながら、あの霜焼けの手が硝子戸を擡《もた》げようとして悪戦苦闘する容子《ようす》を、まるでそれが永久に成功しない事でも祈るやうな冷酷な眼で眺めてゐた。すると間もなく凄じい音をはためかせて、汽車が隧道へなだれこむと同時に、小娘の開けようとした硝子戸は、とうとうばたりと下へ落ちた。さうしてその四角な穴の中から、煤《すす》を溶したやうなどす黒い空気が、俄《にはか》に息苦しい煙になつて、濠々《もうもう》と車内へ漲《みなぎ》り出した。元来|咽喉《のど》を害してゐた私は、手巾《ハンケチ》を顔に当てる暇さへなく、この煙を満面に浴びせられたおかげで、殆《ほとんど》息もつけない程|咳《せ》きこまなければならなかつた。が、小娘は私に頓着する気色《けしき》も見えず、窓から外へ首をのばして、闇を吹く風に銀杏返《いてふがえ》し
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