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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)ある時雨《しぐれ》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)ほんの子供|瞞《だま》し

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]
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 ある時雨《しぐれ》の降る晩のことです。私《わたし》を乗せた人力車《じんりきしゃ》は、何度も大森界隈《おおもりかいわい》の険《けわ》しい坂を上ったり下りたりして、やっと竹藪《たけやぶ》に囲まれた、小さな西洋館の前に梶棒《かじぼう》を下しました。もう鼠色のペンキの剥《は》げかかった、狭苦しい玄関には、車夫の出した提灯《ちょうちん》の明りで見ると、印度《インド》人マティラム・ミスラと日本字で書いた、これだけは新しい、瀬戸物の標札《ひょうさつ》がかかっています。
 マティラム・ミスラ君と云えば、もう皆さんの中にも、御存じの方が少くないかも知れません。ミスラ君は永年印度の独立を計っているカルカッタ生れの愛国者で、同時にまたハッサン・カンという名高い婆羅門《ばらもん》の秘法を学んだ、年の若い魔術《まじゅつ》の大家なのです。私はちょうど一月ばかり以前から、ある友人の紹介でミスラ君と交際していましたが、政治経済の問題などはいろいろ議論したことがあっても、肝腎《かんじん》の魔術を使う時には、まだ一度も居合せたことがありません。そこで今夜は前以て、魔術を使って見せてくれるように、手紙で頼んで置いてから、当時ミスラ君の住んでいた、寂しい大森の町はずれまで、人力車を急がせて来たのです。
 私は雨に濡れながら、覚束《おぼつか》ない車夫の提灯の明りを便りにその標札の下にある呼鈴《よびりん》の釦《ボタン》を押しました。すると間もなく戸が開《あ》いて、玄関へ顔を出したのは、ミスラ君の世話をしている、背の低い日本人の御婆さんです。
「ミスラ君は御出でですか。」
「いらっしゃいます。先ほどからあなた様を御待ち兼ねでございました。」
 御婆さんは愛想《あいそ》よくこう言いながら、すぐその玄関のつきあたりにある、ミスラ君の部屋へ私を案内しました。
「今晩は、雨の降るのによく御出ででした。」
 色のまっ黒な、眼の大きい、柔《やわらか》な口髭《くちひげ》の
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