あるミスラ君は、テエブルの上にある石油ランプの心《しん》を撚《ねじ》りながら、元気よく私に挨拶《あいさつ》しました。
「いや、あなたの魔術さえ拝見出来れば、雨くらいは何ともありません。」
私は椅子《いす》に腰かけてから、うす暗い石油ランプの光に照された、陰気な部屋の中を見廻しました。
ミスラ君の部屋は質素な西洋間で、まん中にテエブルが一つ、壁側《かべぎわ》に手ごろな書棚が一つ、それから窓の前に机が一つ――ほかにはただ我々の腰をかける、椅子が並んでいるだけです。しかもその椅子や机が、みんな古ぼけた物ばかりで、縁《ふち》へ赤く花模様を織り出した、派手《はで》なテエブル掛でさえ、今にもずたずたに裂けるかと思うほど、糸目が露《あらわ》になっていました。
私たちは挨拶をすませてから、しばらくは外の竹藪に降る雨の音を聞くともなく聞いていましたが、やがてまたあの召使いの御婆さんが、紅茶の道具を持ってはいって来ると、ミスラ君は葉巻《はまき》の箱の蓋《ふた》を開けて、
「どうです。一本。」と勧《すす》めてくれました。
「難有《ありがと》う。」
私は遠慮《えんりょ》なく葉巻を一本取って、燐寸《マッチ》の火をうつしながら、
「確かあなたの御使いになる精霊《せいれい》は、ジンとかいう名前でしたね。するとこれから私が拝見する魔術と言うのも、そのジンの力を借りてなさるのですか。」
ミスラ君は自分も葉巻へ火をつけると、にやにや笑いながら、※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》の好い煙を吐いて、
「ジンなどという精霊があると思ったのは、もう何百年も昔のことです。アラビヤ夜話《やわ》の時代のこととでも言いましょうか。私がハッサン・カンから学んだ魔術は、あなたでも使おうと思えば使えますよ。高が進歩した催眠術《さいみんじゅつ》に過ぎないのですから。――御覧なさい。この手をただ、こうしさえすれば好いのです。」
ミスラ君は手を挙げて、二三度私の眼の前へ三角形のようなものを描きましたが、やがてその手をテエブルの上へやると、縁へ赤く織り出した模様の花をつまみ上げました。私はびっくりして、思わず椅子《いす》をずりよせながら、よくよくその花を眺めましたが、確かにそれは今の今まで、テエブル掛の中にあった花模様の一つに違いありません。が、ミスラ君がその花を私の鼻の先へ持って来ると、ちょうど
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