云ふことを十五回だけ書かなければならない。」
 妻「驚いた、驚いたと書いてゐれば善《い》いのに。」(笑ふ)
 僕「その外《ほか》に何も書けるもんか。若し何か書けるとすれば、……さうだ。このポケツト本の中にちやんともう誰か書き尽してゐる。――『玉敷《たましき》の都の中に、棟《むね》を並べ甍《いらか》を争へる、尊《たか》き卑《いや》しき人の住居《すまひ》は、代々《よよ》を経《へ》てつきせぬものなれど、これをまことかと尋《たづ》ぬれば、昔ありし家は稀《まれ》なり。……いにしへ見し人は、二三十人が中に、僅に一人《ひとり》二人《ふたり》なり。朝《あした》に死し、夕《ゆふべ》に生まるるならひ、ただ水の泡《あわ》にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、何方《いづかた》より来りて、何方《いづかた》へか去る。』……」
 母「何だえ、それは? 『お文様《ふみさま》』のやうぢやないか?」
 僕「これですか? これは『方丈記《はうぢやうき》』ですよ。僕などよりもちよつと偉かつた鴨《かも》の長明《ちやうめい》と云ふ人の書いた本ですよ。」
[#地から1字上げ](昭和二年五月)



底本:「芥川龍之介全集 第四巻」
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