昔はここいらは原ばかりだつた」とか「何《なん》とか様《さま》の裏の田には鶴が下りたものだ」とか話してゐた。しかしそれ等の話の中でも最も僕を動かしたものは「御維新」前には行き倒れとか首縊《くびくく》りとかの死骸を早桶《はやをけ》に入れ、その又早桶を葭簀《よしず》に包んだ上、白張《しらは》りの提灯《ちやうちん》を一本立てて原の中に据《す》ゑて置くと云ふ話だつた。僕は草原《くさはら》の中に立つた白張の提灯を想像し、何か気味の悪い美しさを感じた。しかも彼是《かれこれ》真夜中《まよなか》になると、その早桶のおのづからごろりと転げるといふに至つては、――明治時代の本所はたとひ草原には乏しかつたにもせよ、恐らくまだこのあたりは多少|所謂《いはゆる》「御朱引《ごしゆび》き外《そと》」の面《おも》かげをとどめてゐたのであらう。しかし今はどこを見ても、唯電柱やバラツクの押し合ひへし合ひしてゐるだけである。僕は泥のはねかかつたタクシイの窓越しに往来《わうらい》を見ながら、金銭を武器にする修羅界《しゆらかい》の空気を憂鬱に感じるばかりだつた。
僕等は「橋本《はしもと》」の前で円タクをおり、水のどす黒い掘割り
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