いだい》に蓆張《むしろば》りの小屋をかけてゐたものである。僕等はこの義士の打ち入り以来、名高い回向院を見る為に国技館の横を曲つて行つた。が、それもここへ来る前にひそかに僕の予期してゐたやうにすつかり昔に変つてゐた。

     回向院

 今日《こんにち》の回向院《ゑかうゐん》はバラツクである。如何《いか》に金《きん》の紋《もん》を打つた亜鉛葺《トタンぶ》きの屋根は反《そ》つてゐても、硝子《ガラス》戸を立てた本堂はバラツクと云ふ外《ほか》に仕かたはない。僕等は読経《どきやう》の声を聞きながら、やはり僕には昔|馴染《なじ》みの鼠小僧《ねずみこぞう》の墓を見物に行つた。墓の前には今日《こんにち》でも乞食《こじき》が三四人集つてゐた。が、そんなことはどうでも善《よ》い。それよりも僕を驚かしたのは膃肭獣《をつとせい》供養塔と云ふものの立つてゐたことである。僕はぼんやりこの石碑を見上げ、何かその奥の鼠小僧の墓に同情しない訣《わけ》には行《ゆ》かなかつた。
 鼠小僧《ねずみこぞう》治郎太夫《ぢろだいふ》の墓は建札《たてふだ》も示してゐる通り、震災の火事にも滅びなかつた。赤い提灯《ちやうちん》や蝋燭《らふそく》や教覚速善《けうかくそくぜん》居士《こじ》の額《がく》も大体昔の通りである。尤《もつと》も今は墓の石を欠かれない用心のしてあるばかりではない。墓の前の柱にちやんと「御用のおかたにはお守《まも》り石をさし上げます」と書いた、小さい紙札も貼《は》りつけてある。僕等はこの墓を後ろにし、今度は又墓地の奥に、――国技館の後ろにある京伝《きやうでん》の墓を尋ねて行つた。
 この墓地も僕にはなつかしかつた。僕は僕の友だちと一しよに度たびいたづらに石塔を倒し、寺男や坊さんに追ひかけられたものである。尤《もつと》も昔は樹木《じゆもく》も茂り、一口に墓地と云ふよりも卵塔場《らんたふば》と云ふ気のしたものだつた。が、今は墓石《ぼせき》は勿論《もちろん》、墓を繞《めぐ》つた鉄柵《てつさく》にも凄まじい火の痕《あと》は残つてゐる。僕は「水子塚《みづこづか》」の前を曲り、京伝《きやうでん》の墓の前へ辿《たど》り着いた。京伝の墓も京山《きやうざん》の墓と一しよにやはり昔に変つてゐない。唯それ等の墓の前に柿か何かの若木が一本、ひよろりと枝をのばしたまま、若葉を開いてゐるのは哀れだつた。
 僕等は回向院《ゑかうゐん》の表門を出、これもバラツクになつた坊主《ばうず》軍鶏《しやも》を見ながら、一《ひと》つ目《め》の橋へ歩いて行つた。僕の記憶を信ずるとすれば、この一つ目の橋のあたりは大正時代にも幾分か広重《ひろしげ》らしい画趣を持つてゐたものである。しかしもう今日《こんにち》ではどこにもそんな景色は残つてゐない。僕等は無慙《むざん》にもひろげられた路《みち》を向う両国《りやうごく》へ引き返しながら、偶然「泰《たい》ちやん」の家《うち》の前を通りかかつた。「泰ちやん」は下駄屋《げたや》の息子《むすこ》である。僕は僕の小学時代にも作文は多少|上手《じやうず》だつた。が、僕の作文は、――と云ふよりも僕等の作文は、大抵《たいてい》は所謂《いはゆる》美文だつた。「富士の峯白くかりがね池の面《おもて》に下《くだ》り、空仰げば月|麗《うるは》しく、余が影法師黒し。」――これは僕の作文ではない。二三年|前《まへ》に故人になつた僕の小学時代の友だちの一人《ひとり》、――清水昌彦《しみづまさひこ》君の作文である。「泰ちやん」はかう云ふ作文の中にひとり教科書の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《にほひ》のない、活き活きした口語文を作つてゐた。それは何《なん》でも「虹《にじ》」といふ作文の題の出た時である。僕は内心僕の作文の一番になることを信じてゐた。が、先生の一番にしたのは「泰ちやん」――下駄屋「伊勢甚《いせじん》」の息子|木村泰助《きむらたいすけ》君の作文だつた。「泰ちやん」は先生の命令を受け、彼自身の作文を朗読《らうどく》した。それは恐らくは誰よりも僕を動かさずにはおかなかつた。僕は勿論「泰ちやん」の為に見事に敗北を受けたことを感じた。同時に又「泰《たい》ちやん」の描《ゑが》いた「虹」にありありと夕立ちの通り過ぎたのを感じた。僕を動かした文章は東西に亘《わた》つて少くはない。しかしまづ僕を動かしたのはこの「泰ちやん」の作文である。運命は僕を売文の徒にした。若し「泰ちやん」も僕のやうにペンを執《と》つてゐたとすれば、「大東京|繁昌記《はんじやうき》」の読者はこの「本所《ほんじよ》両国《りやうごく》」よりも或は数等美しい印象記を読んでゐたかも知れない。けれども「泰ちやん」はどうしてゐるであらう? 僕は幾つも下駄の並んだ飾り窓の前に佇《たたず》んだまま、そつと店の中へ目を移した。店の中
前へ 次へ
全15ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング