たちやま》や梅《うめ》ヶ谷《たに》の大関だつた時代に横綱を張つた相撲《すまふ》だつた。

     相生町

 本所《ほんじよ》警察署もいつの間《ま》にかコンクリイトの建物に変つてゐる。僕の記憶にある警察署は古い赤|煉瓦《れんぐわ》の建物だつた。僕はこの警察署長の息子《むすこ》も僕の友だちだつたのを覚えてゐる。それから警察署の鄰《となり》にある蝙蝠傘屋《かうもりがさや》も――傘屋の木島《きじま》さんは今日《こんにち》でも僕のことを覚えてゐてくれるであらうか? いや、木島さん一人《ひとり》ではない。僕はこの界隈《かいわい》に住んでゐた大勢《おほぜい》の友だちを覚えてゐる。しかし僕の友だちは長い年月《としつき》の流れるのにつれ、もう全然僕などとは縁のない暮らしをしてゐるであらう。僕は四五年|前《まへ》の簡閲点呼《かんえつてんこ》に大紙屋《おほがみや》の岡本《をかもと》さんと一しよになつた。僕の知つてゐた大紙屋は封建時代に変りのない土蔵《どざう》造りの紙屋である。その又薄暗い店の中には番頭や小僧が何人も忙《いそが》しさうに歩きまはつてゐた。が、岡本さんの話によれば、今では店の組織も変り、海外へ紙を輸出するのにもいろいろ計画を立ててゐるらしい。
「この辺もすつかり変つてゐますか?」
「昔からある店もありますけれども、……町全体の落ち着かなさ加減はね。」
 僕はその大紙屋《おほがみや》のあつた「馬車通り」(「馬車通り」と云ふのは四《よ》つ目《め》あたりへ通ふガタ馬車のあつた為である。)のぬかるみを思ひ出した。しかしまだ明治時代にはそこにも大紙屋のあつたやうに封建時代の影の落ちた何軒かの「しにせ」は残つてゐた。僕はこの馬車通りにあつた「魚善《うをぜん》」といふ肴屋《さかなや》を覚えてゐる。それから又|樋口《ひぐち》さんといふ門構への医者を覚えてゐる。最後にこの樋口さんの近所にピストル強盗|清水定吉《しみづさだきち》の住んでゐたことを覚えてゐる。明治時代もあらゆる時代のやうに何人かの犯罪的天才を造《つく》り出した。ピストル強盗も稲妻《いなづま》強盗や五寸|釘《くぎ》の虎吉《とらきち》と一しよにかう云ふ天才たちの一人《ひとり》だつたであらう。僕は彼の按摩《あんま》になつて警官の目をくらませてゐたり、彼の家の壁をがんどう返しにして出没を自在にしてゐたことにロマン趣味を感じずにはゐられなかつた。これ等の犯罪的天才は大抵《たいてい》は小説の主人公になり、更《さら》に又|所謂《いわゆる》壮士芝居の劇中人物になつたものである。僕はかういふ壮士芝居の中に「大悪僧《だいあくそう》」とか云ふものを見、一場《ひとば》々々の血なまぐささに夜も碌々《ろくろく》眠られなかつた。尤《もつと》もこの「大悪僧」は或はピストル強盗のやうに実在の人物ではなかつたかも知れない。
 僕等はいつか埃《ほこり》の色をした国技館《こくぎくわん》の前へ通りかかつた。国技館は丁度《ちやうど》日光《につくわう》の東照宮《とうせうぐう》の模型《もけい》か何かを見世物《みせもの》にしてゐる所らしかつた。僕の通《かよ》つてゐた江東《かうとう》小学校は丁度《ちやうど》ここに建つてゐたものである。現に残つてゐる大銀杏《おほいてふ》も江東小学校の運動場の隅に、――といふよりも附属幼稚園の運動場の隅に枝をのばしてゐた。当時の小学校の校長の震災の為に死んだことは前に書いた通りである。が、僕はつい近頃やはり当時から在職してゐたT先生にお目にかかり、女生徒に裁縫《さいほう》を教へてゐた或女の先生も割《わ》り下水《げすゐ》に近い京極《きやうごく》子爵家(?)の溝《どぶ》の中に死んだことを知つたりした。この先生は着物は腐れ、体は骨になつてゐるものの、貯金帳だけはちやんと残つてゐた為にやつと誰だかわかつたさうである。T先生の話によれば、僕等を教へた先生たちは大抵《たいてい》は本所《ほんじよ》にゐないらしい。僕は比留間《ひるま》先生に張り倒されたことを覚えてゐる。それから宗《そう》先生に後頭部を突かれたことを覚えてゐる。それから葉若《はわか》先生に、――けれども僕の覚えてゐるのは体罰《たいばつ》を受けたことばかりではない。僕は又この小学校の中にいろいろの喜劇のあつたことも覚えてゐる。殊に大島《おほしま》と云ふ僕の親友のちやんと机に向つたまま、いつかうんこ[#「うんこ」に傍点]をしてゐたのは喜劇中の喜劇だつた。しかしこの大島|敏夫《としお》も――花や歌を愛してゐた江東小学校の秀才も二十《はたち》前後に故人になつてゐる。……
 国技館の隣《とな》りに回向院《ゑかうゐん》のあることは大抵《たいてい》誰でも知つてゐるであらう。所謂《いはゆる》本場所の相撲《すまふ》も亦《また》国技館の出来ない前には回向院《ゑかうゐん》の境内《け
前へ 次へ
全15ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング