には「泰ちやん」のお母さんらしい人が一人《ひとり》坐つてゐる。が、木村泰助君は生憎《あいにく》どこにも見えなかつた。……

     方丈記

 僕「今日は本所《ほんじよ》へ行つて来ましたよ。」
 父「本所もすつかり変つたな。」
 母「うちの近所はどうなつてゐるえ?」
 僕「どうなつてゐるつて、……釣竿屋の石井《いしゐ》さんにうちを売つたでせう。あの石井さんのあるだけですね。ああ、それから提灯屋《ちやうちんや》もあつた。……」
 伯母《をば》「あすこには洗湯《せんたう》もあつたでせう。」
 僕「今でも常磐湯《ときはゆ》と云ふ洗湯はありますよ。」
 伯母「常磐湯と言つたかしら。」
 妻「あたしのゐた辺《へん》も変つたでせうね?」
 僕「変らないのは石河岸《いしがし》だけだよ。」
 妻「あすこにあつた、大きい柳は?」
 僕「柳などは勿論焼けてしまつたさ。」
 母「お前のまだ小さかつた頃には電車も通つてゐなかつたんだからね。」
 父「上野《うへの》と新橋《しんばし》との間《あひだ》さへ鉄道馬車があつただけなんだから。――鉄道馬車と云ふ度に思ひ出すのは……」
 僕「僕の小便をしてしまつた話でせう。満員の鉄道馬車に乗つたまま。……」
 伯母「さうさう、赤いフランネルのズボン下をはいて、……」
 父「何、あの鉄道馬車会社の神戸《かんべ》さんのことさ。神戸さんもこの間《あひだ》死んでしまつたな。」
 僕「東京電燈の神戸《かんべ》さんでせう。へええ、神戸さんを知つてゐるんですか?」
 父「知つてゐるとも。大倉《おほくら》さんなども知つてゐたもんだ。」
 僕「大倉|喜八郎《きはちらう》をね……」
 父「僕も[#「僕も」に傍点]あの時分にどうかすれば、……」
 僕「もうそれだけで沢山《たくさん》ですよ。」
 伯母「さうだね。この上損でもされてゐた日には……」(笑ふ)
 僕「『榛《はん》の木《き》馬場《ばば》』あたりはかたなしですね。」
 父「あすこには葛飾北斎《かつしかほくさい》が住んでゐたことがある。」
 僕「『割《わ》り下水《げすゐ》』もやつぱり変つてしまひましたよ。」
 母「あすこには悪《わる》御家人《ごけにん》が沢山《たくさん》ゐてね。」
 僕「僕の覚えてゐる時分でも何かそんな気のする所でしたね。」
 妻「お鶴《つる》さんの家《うち》はどうなつたでせう?」
 僕「お鶴さん? ああ、あの藍問屋《あゐどんや》の娘さんか。」
 妻「ええ、兄《にい》さんの好きだつた人。」
 僕「あの家《うち》どうだつたかな。兄さんの為にも見て来るんだつけ。尤《もつと》も前は通つたんだけれども。」
 伯母「あたしは地震の年以来一度も行つたことはないんだから、――行つても驚くだらうけれども。」
 僕「それは驚くだけですよ。伯母《をば》さんには見当《けんたう》もつかないかも知れない。」
 父「何しろ変りも変つたからね。そら、昔は夕がたになると、みんな門を細目《ほそめ》にあけて往来《わうらい》を見てゐたもんだらう?」
 母「法界節《ほふかいぶし》や何かの帰つて来るのをね。」
 伯母「あの時分は蝙蝠《かうもり》も沢山《たくさん》ゐたでせう。」
 僕「今は雀さへ飛んでゐませんよ。僕は実際|無常《むじやう》を感じてね。……それでも一度行つてごらんなさい。まだずんずん変らうとしてゐるから。」
 妻「わたしは一度子供たちに亀井戸《かめゐど》の太鼓橋《たいこばし》を見せてやりたい。」
 父「臥龍梅《ぐわりゆうばい》はもうなくなつたんだらうな?」
 僕「ええ、あれはもうとうに。……さあ、これから驚いたと云ふことを十五回だけ書かなければならない。」
 妻「驚いた、驚いたと書いてゐれば善《い》いのに。」(笑ふ)
 僕「その外《ほか》に何も書けるもんか。若し何か書けるとすれば、……さうだ。このポケツト本の中にちやんともう誰か書き尽してゐる。――『玉敷《たましき》の都の中に、棟《むね》を並べ甍《いらか》を争へる、尊《たか》き卑《いや》しき人の住居《すまひ》は、代々《よよ》を経《へ》てつきせぬものなれど、これをまことかと尋《たづ》ぬれば、昔ありし家は稀《まれ》なり。……いにしへ見し人は、二三十人が中に、僅に一人《ひとり》二人《ふたり》なり。朝《あした》に死し、夕《ゆふべ》に生まるるならひ、ただ水の泡《あわ》にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、何方《いづかた》より来りて、何方《いづかた》へか去る。』……」
 母「何だえ、それは? 『お文様《ふみさま》』のやうぢやないか?」
 僕「これですか? これは『方丈記《はうぢやうき》』ですよ。僕などよりもちよつと偉かつた鴨《かも》の長明《ちやうめい》と云ふ人の書いた本ですよ。」
[#地から1字上げ](昭和二年五月)



底本:「芥川龍之介全集 第四巻」
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