》ろ禿《かむろ》だつた。)この寺は――慈眼寺《じげんじ》といふ日蓮《にちれん》宗の寺は震災よりも何年か前に染井《そめゐ》の墓地《ぼち》のあたりに移転してゐる。彼等の墓も寺と一しよに定めし同じ土地に移転してゐるであらう。が、あのじめ/\した猿江《さるえ》の墓地は未《いま》だに僕の記憶に残つてゐる。就中《なかんづく》薄い水苔《みづごけ》のついた小林平八郎の墓の前に曼珠沙華《まんじゆしやげ》の赤々と咲いてゐた景色は明治時代の本所《ほんじよ》以外に見ることの出来ないものだつたかも知れない。
萩寺《はぎでら》の先にある電柱(?)は「亀井戸《かめゐど》天神《てんじん》近道」といふペンキ塗りの道標《だうへう》を示してゐた。僕等はその横町《よこちやう》を曲《まが》り、待合《まちあひ》やカフエの軒を並べた、狭苦しい往来《わうらい》を歩いて行つた。が、肝腎《かんじん》の天神様へは容易《ようい》に出ることも出来なかつた。すると道ばたに女の子が一人《ひとり》メリンスの袂《たもと》を翻《ひるがへ》しながら、傍若無人《ばうじやくぶじん》にゴム毬《まり》をついてゐた。
「天神様へはどう行《ゆ》きますか?」
「あつち。」
女の子は僕等に返事をした後《のち》、聞えよがしにこんなことを言つた。
「みんな天神様のことばかり訊《き》くのね。」
僕はちよつと忌々《いまいま》しさを感じ、この如何《いか》にもこましやくれた十《とを》ばかりの女の子を振り返つた。しかし彼女は側目《わきめ》も振らずに(しかも僕に見られてゐることをはつきり承知してゐながら)矢張《やは》り毬《まり》をつき続けてゐた。実際支那人の言つたやうに「変らざるものよりして之を見れば」何ごとも変らないのに違ひない。僕も亦《また》僕の小学時代には鉄面皮《てつめんぴ》にも生薬屋《きぐすりや》へ行つて「半紙《はんし》を下さい」などと言つたものだつた。
「天神様」
僕等は門並《かどな》みの待合《まちあひ》の間《あひだ》をやつと「天神様《てんじんさま》」の裏門へ辿《たど》りついた。するとその門の中には夏外套を着た男が一人《ひとり》、何か滔々としやべりながら、「お立ち合ひ」の人々へ小さい法律書を売りつけてゐた。僕は彼の雄辯に辟易《へきえき》せずにはゐられなかつた。が、この人ごみを通りこすと、今度は背広を着た男が一人最新化学応用の目薬《めぐすり》と云ふものを売りつけてゐた。この「天神様」の裏の広場も僕の小学時代にはなかつたものである。しかし広場の出来た後《のち》にもここにかかる世見物小屋《みせものごや》[#「見世物小屋」の誤り?]は活《い》き人形や「からくり」ばかりだつた。
「こつちは法律《はふりつ》、向うは化学――ですね。」
「亀井戸《かめゐど》も科学の世界になつたのでせう。」
僕等はこんなことを話し合ひながら、久しぶりに「天神様」へお詣りに行つた。「天神様」の拝殿は仕合せにも昔に変つてゐない。いや、昔に変つてゐないのは筆塚《ふでづか》や石の牛も同じことである。僕は僕の小学時代に古い筆を何本も筆塚へ納めたことを思ひ出した。(が、僕の字は何年たつても、一向《いつかう》上達する容子《ようす》はない。)それから又石の牛の額へ銭を投げてのせることに苦心したことも思ひ出した。かう云ふ時に投げる銭は今のやうに一銭銅貨ではない。大抵《たいてい》は五厘銭か寛永通宝《くわんえいつうはう》である。その又穴銭の中の文銭《ぶんせん》を集め、所謂《いはゆる》「文銭の指環《ゆびわ》」を拵《こしら》へたのも何年|前《まへ》の流行であらう。僕等は拝殿の前へ立ち止まり、ちよつと帽をとつてお時宜《じぎ》をした。
「太鼓橋《たいこばし》も昔の通りですか?」
「ええ、――しかしこんなに小さかつたかな。」
「子供の時に大きいと思つたものは存外《ぞんぐわい》あとでは小さいものですね。」
「それは太鼓橋《たいこばし》ばかりぢやないかも知れない。」
僕等は暖簾《のれん》をかけた掛け茶屋越しにどんより水光りのする池を見ながら、やつと短い花房を垂らした藤棚《ふぢだな》の下を歩いて行つた。この掛け茶屋や藤棚もやはり昔に変つてゐない。しかし木の下や池のほとりに古人の句碑の立つてゐるのは僕には何か時代錯誤を感じさせない訣《わけ》には行《ゆ》かなかつた。江戸時代に興つた「風流」は江戸時代と一しよに滅んでしまつた。唯僕等の明治時代はまだどこかに二百年間の「風流」の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《にほひ》を残してゐた。けれども今は目《ま》のあたりに、――O君はにやにや笑ひながら、恐らくは君自身は無意識に僕にこの矛盾を指《さ》し示した。
「カルシウム煎餅《せんべい》も売つてゐますね。」
「ああ、あの大きい句碑の前にね。――それでもまだ張《は》り
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