子《こ》の亀の子は売つてゐる。」
僕等は、「天神様」の外へ出た後、「船橋屋《ふなばしや》」の葛餅《くずもち》を食ふ相談をした。が、本所《ほんじよ》に疎遠《そゑん》になつた僕には「船橋屋」も容易に見つからなかつた。僕はやむを得ず荒物屋《あらものや》の前に水を撒《ま》いてゐたお上《かみ》さんに田舎《ゐなか》者らしい質問をした。それから花柳病《くわりうびやう》の医院の前をやつと又船橋屋へ辿《たど》り着いた。船橋屋も家は新《あら》たになつたものの、大体は昔に変つてゐない。僕等は縁台《えんだい》に腰をおろし、鴨居《かもゐ》の上にかけ並べた日本アルプスの写真を見ながら、葛餅を一盆《ひとぼん》づつ食ふことにした。
「安いものですね、十銭とは。」
O君は大いに感心してゐた。しかし僕の中学時代には葛餅も一盆《ひとぼん》三銭だつた。僕は僕の友だちと一しよに江東梅園《かうとうばいゑん》などへ遠足に行つた帰りに度たびこの葛餅を食つたものである。江東梅園も臥龍梅《ぐわりゆうばい》と一しよに滅びてしまつてゐるであらう。水田《すゐでん》や榛《はん》の木のあつた亀井戸《かめゐど》はかう云ふ梅の名所だつた為に南画《なんぐわ》らしい趣《おもむき》を具へてゐた。が、今は船橋屋の前も広い新開の往来《わうらい》の向うに二階建の商店が何軒も軒を並べてゐる。……
錦糸堀
僕は天神橋《てんじんばし》の袂《たもと》から又円タクに乗ることにした。この界隈《かいわい》はどこを見ても、――僕はもう今昔《こんじやく》の変化を云々《うんぬん》するのにも退屈した。僕の目に触れるものは半《なか》ば出来上つた小公園である。或は亜鉛塀《トタンべい》を繞《めぐ》らした工場である。或は又見すぼらしいバラツクである。斎藤茂吉《さいとうもきち》氏は何かの機会に「ものの行《ゆ》きとどまらめやも」と歌ひ上げた。しかし今日《こんにち》の本所《ほんじよ》は「ものの行き」を現してゐない。そこにあるものは震災の為に生じた「ものの飛び[#「飛び」に傍点]」に近いものである。僕は昔この辺に糧秣廠《りやうまつしやう》のあつたことを思ひ出し、更にその糧秣廠に火事のあつたことを思ひ出し、如露亦如電《によろやくによでん》といふ言葉の必《かならず》しも誇張でないことを感じた。
僕の通《かよ》つてゐた第三中学校も鉄筋コンクリイトに変つてゐる。僕はこの中学校へ五年の間《あひだ》通《かよ》ひつづけた。当時の校舎も震災の為に灰になつてしまつたのであらう。が、僕の中学時代には鼠色のペンキを塗つた二階建の木造だつた。それから校舎のまはりにはポプラアが何本かそよいでゐた。(この界隈《かいわい》は土の痩《や》せてゐる為にポプラア以外の木は育ち悪《にく》かつたのである。)僕はそこへ通つてゐるうちに英語や数学を覚えた外《ほか》にも如何《いか》に僕等人間の情け無いものであるかを経験した。かう云ふのは僕の先生たちや友だちの悪口《わるぐち》を言つてゐるのではない。僕等人間と云ふうちには勿論僕のこともはひつてゐるのである。たとへば僕等は或友だちをいぢめ、彼を砂の中に生き埋めにした。僕等の彼をいぢめたのは格別理由のあつた訣《わけ》ではない。若し又理由らしいものを挙げるとすれば、唯彼の生意気《なまいき》だつた、――或は彼は彼自身を容易に曲《ま》げようとしなかつたからである。僕はもう五六年|前《ぜん》、久しぶりに彼とこの話をし、この小事件も彼の心に暗い影を落してゐるのを感じた。彼は今は揚子江《やうすこう》の岸に不相変《あひかはらず》孤独に暮らしてゐる。……
かう云ふ僕の友だちと一しよに僕の記憶に浮んで来るのは僕等を教へた先生たちである。僕はこの「繁昌記《はんじやうき》」の中に一々そんな記憶を加へるつもりはない。けれども唯|一人《ひとり》この機会にスケツチしておきたいのは山田《やまだ》先生である。山田先生は第三中学校の剣道部と云ふものの先生だつた。先生の剣道は封建《ほうけん》時代の剣客《けんかく》に勝《まさ》るとも劣らなかつたであらう。何《なん》でも先生に学んだ一人《ひとり》は武徳会の大会に出、相手の小手《こて》へ竹刀《しなひ》を入れると、余り気合ひの烈《はげ》しかつた為に相手の腕を一打ちに折つてしまつたとか云ふことだつた。が、僕の伝へたいのは先生の剣道のことばかりではない。先生は又食物を減じ、仙人《せんにん》に成る道も修行してゐた。のみならず明治時代にも不老不死の術に通じた、正真紛《しやうじんまぎ》れのない仙人の住んでゐることを確信してゐた。僕は不幸にも先生のやうに仙人に敬意を感じてゐない。しかし先生の鍛煉《たんれん》にはいつも敬意を感じてゐる。先生は或時博物学教室へ行《ゆ》き、そこにあつたコツプの昇汞水《しようこうすゐ》を水と思つて飲
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