伝ひに亀井戸《かめゐど》の天神様《てんじんさま》へ行つて見ることにした。名高い柳島《やなぎしま》の「橋本」も今は食堂に変つてゐる。尤《もつと》もこの家は焼けずにすんだらしい。現に古風な家の一部や荒れ果てた庭なども残つてゐる。けれども磨《す》り硝子《ガラス》へ緑いろに「食堂」と書いた軒燈《けんとう》は少くとも僕にははかなかつた。僕は勿論「橋本」の料理を云々《うんぬん》するほどの通人《つうじん》ではない。のみならず「橋本」へ来たことさへあるかないかわからない位である。が、五代目|菊五郎《きくごろう》の最初の脳溢血《なういつけつ》を起したのは確かこの「橋本」の二階だつたであらう。
 掘割りを隔てた妙見様《めうけんさま》も今ではもうすつかり裸になつてゐる。それから掘割りに沿うた往来《わうらい》も、――僕は中学時代に蕪村《ぶそん》句集を読み、「君|行《ゆ》くや柳緑に路長し」といふ句に出合つた時、この往来にあつた柳を思ひ出さずにはゐられなかつた。しかし今僕等の歩いてゐるのは有田《ありた》ドラツグや愛聖館《あいせいくわん》の並んだ、せせこましいなりに賑かな往来である。近頃|私娼《ししやう》の多いとか云ふのも恐らくはこの往来の裏あたりであらう。僕は浅草《あさくさ》千束町《せんぞくまち》にまだ私娼の多かつた頃の夜《よる》の景色を覚えてゐる。それは窓ごとに火《ほ》かげのさした十二階の聳えてゐる為に殆《ほとん》ど荘厳な気のするものだつた。が、この往来はどちらへ抜けても、ボオドレエル的色彩などは全然見つからないのに違ひない。たとひデカダンスの詩人だつたとしても、僕は決してかう云ふ町裏を徘徊《はいくわい》する気にはならなかつたであらう。けれども明治時代の諷刺《ふうし》詩人《しじん》、斎藤緑雨《さいとうりよくう》は十二階に悪趣味そのものを見|出《いだ》してゐた。すると明日《みやうにち》の詩人たちは有田ドラツグや愛聖館にも彼等自身の「悪の花」を――或は又「善の花」を歌ひ上げることになるかも知れない。

     萩寺あたり

 僕は碌《ろく》でもないことを考へながら、ふと愛聖館《あいせいくわん》の掲示板《けいじばん》を見上げた。するとそこに書いてあるのは確かかういふ言葉だつた。
「神様はこんなにたくさんの人間をお造りになりました。ですから人間を愛していらつしやいます。」
 産児制限論者は勿論、現世《げんせい》の人々はかういふ言葉に微笑しない訣《わけ》にはゆかないであらう。人口過剰に苦しんでゐる僕等はこんなにたくさんの人間のゐることを神の愛の証拠《しようこ》と思ふことは出来ない。いや、寧《むし》ろ全能の主《しゆ》の憎しみの証拠とさへ思はれるであらう。しかし本所《ほんじよ》の或|場末《ばすゑ》の小学生を教育してゐる僕の旧友の言葉に依れば、少くともその界隈《かいわい》に住んでゐる人々は子供の数《かず》の多い家ほど反《かへ》つて暮らしも楽《らく》だと云ふことである。それは又どの家の子供も兎《と》に角《かく》十か十一になると、それぞれ子供なりに一日の賃金を稼《かせ》いで来るからだと云うことである。愛聖館《あいせいくわん》の掲示板にかういふ言葉を書いた人は或はこの事実を知らなかつたかも知れない。が、確かにかういふ言葉は現世の本所《ほんじよ》の或場末に生活してゐる人々の気持ちを代辯することになつてゐるであらう。尤《もつと》も子供の多い程暮らしも楽だといふことは子供自身には仕合せかどうか、多少の疑問のあることは事実である。
 それから僕等は通りがかりにちよつと萩寺《はぎでら》を見物した。萩寺も突つかひ棒はしてあるものの、幸ひ震災に焼けずにすんだらしい。けれども萩の四五株しかない上、落合直文《おちあひなほぶみ》先生の石碑を前にした古池の水も渇《か》れ渇《が》れになつてゐるのは哀れだつた。ただこの古池に臨んだ茶室だけは昔よりも一層もの寂《さ》びてゐる。僕は萩寺の門を出ながら、昔は本所《ほんじよ》の猿江《さるえ》にあつた僕の家の菩提寺《ぼだいじ》を思ひ出した。この寺には何《なん》でも司馬江漢《しばかうかん》や小林平八郎《こばやしへいはちらう》の墓の外《ほか》に名高い浦里時次郎《うらざとときじろう》の翼比塚《ひよくづか》[#「比翼塚」の誤り?]も残つてゐたものである。僕の司馬江漢を知つたのは勿論余り古いことではない。しかし義士の討入りの夜《よ》に両刀を揮《ふる》つて闘つた振り袖姿の小林平八郎は小学時代の僕等には実に英雄そのものだつた。それから浦里時次郎も、――僕はあらゆる東京人のやうに芝居には悪縁の深いものである。従つて矢張《やは》り小学時代から浦里時次郎を尊敬してゐた。(けれども正直に白状すれば、はじめて浦里時次郎を舞台の上に見物した時、僕の恋愛を感じたものは浦里よりも寧《むし
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